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Turner, 1775-1851)の作品とその擁護者であったラスキンの絵画論の影響下に《ベニスの月》(1907年)を描いた。本論では、その着想源の一つとして『近代画家論』所収の挿絵版画、ターナー原画《ヴェニスの税関舎とサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会》が考えられることを指摘した。また栖鳳は、ラスキンの絵画論が単に厳格な写実主義にとどまらないことを看破していた。その背景には円山・四条派の写生画に受け継がれてきた写意の伝統があった。対象の形似を越えて、精神性を表現することを重視した写意の伝統が、ラスキンの絵画論を受容する日本の土壌として機能したと言える。\n 水彩画界では、登山家・紀行文家の小島烏水(1873~1948)の「ラスキンの山岳論」(1909~1910年、初出『みづゑ』)に見られるように、1900年代に流行した水彩画と登山の二領域を横断して活動した登山家と水彩画家たちが、ラスキンの山岳論、とくに『近代画家論』第4巻の「山岳の栄光(The Mountain Glory)」の感化を受けた。1905年創刊の水彩画専門誌『みづゑ』と同年創設の山岳会(現日本山岳会)を舞台に活躍した大下藤次郎(1870~1911)や丸山晩霞(1867~1942)ら水彩画家たちの活動は、烏水の『日本アルプス』(全4巻、1910~1915年)の挿絵に典型的な「山岳画」という新たな絵画ジャンルの誕生を促し、1936年の「日本山岳画協会」の設立へとつながっていった。\n 1910年創刊の『白樺』によるポスト印象派の紹介を受けて、画家の主観・個性をことさらに讃える思潮が高まったが、これに対して、ポスト印象派絵画の背後にある西洋のアカデミズムの伝統と「自然研究、写実」の重要性を、ラスキンの絵画論を援用して訴えたのが、矢代幸雄(1890~1975)の「ラスキンの叫び」(1913年)である。この論考の中で矢代は『近代画家論』の第1巻と第4巻の「ターナーの地誌的風景画について(Of Turnerian Topography)」を参照し、ラスキンのターナー論において重要な作例《サン・ゴタールの峠道、ファイド近傍》(1843年、モーガン図書館・美術館)を挙げ、ラスキンが写実のみならず画家の想像力を重視していたこと、その根底に自然美への礼賛があったことを明快に説いている。1921年以降ノートンの弟子バーナード・ベレンソン(Bernard Berenson, 1865-1959)に師事し、日本の最初期の美術史家となる矢代が東京帝国大学在学中に著したこの論考は、美術史家としての矢代の原点にラスキンの美術論があったことを裏づけている。\n 第2期の第二の特徴として、日本の前近代までの造形美術の伝統を『近代画家論』の中に再発見する視点が散見されることを指摘した。例えば、ラスキンの絵画論を写意の概念から理解した先の栖鳳の言説のほか、藤村の「雲」(1900年)や岩村の「ラスキン先生とアルプス山」(1911年)が挙げられる。藤村は、西洋近代の風景画の特長としてラスキンが第1巻で論じた写実的な雲の描写から、日本古来の造形美術の装飾モチーフである雲・霞を思い、さらに岩村は、第4巻の「山岳の栄光」と第3巻の「近代の風景画について(Of Modern Landscape)」を参照し、ラスキンの言説とスイスアルプスの山と水とを描いた水彩画の中に、日本の山水画の伝統を重ね合わせて見ていた。\n 第3期には、柳宗悦の「工芸美論の先駆者について」(1927年)が示しているように、西洋の〈美術〉〈美〉の概念を消化した上で、それとは異なる日本の工芸、工芸美の理念を確立し、ラスキンのみならず西洋を越えていこうとする言説が現れる。ラスキンの美術思想は、産業化する社会における美術の在り方を問いなおす視座を備えていたからこそ、産業資本主義がもたらすさまざまな弊害が浮上した1917年以降も読み継がれていったと言える。また、銀座ミキモトの御曹司でラスキン研究家・コレクターの御木本隆三(1893~1971)が東京、京都、神戸で開催した「ラスキン先生遺品小展覧会」(1926、1931、1933年)を通して、ラスキン受容の裾野は、一部の工場労働者にまで広がっていった。\n なお、第1期から第3期まで一貫してラスキンを紹介していたのが徳富蘇峰(1863〜1957)である。蘇峰は1896年から翌年にかけての欧米視察時に、ノートンら英米の著名なラスキニアンたちに面会していた。『人物偶評』(1901年)での透徹したラスキン理解と、『国民新聞』の連載(全17回、1926年)での人間的共感にあふれた紹介が、日本のラスキン受容に果たした役割の大きさは計り知れない。\n 以上のように、フェノロサから岡倉、岩村、久米、矢代、栖鳳まで、近代日本の美術教育の礎を築いた人々が、ラスキンを受容し、紹介していた。また蘇峰らジャーナリストの言説や、烏水や隆三ら個人のラスキン研究者が中心となって設立された山岳会や東京ラスキン協会の場を介して、ラスキンの美術思想は一般に知られるようになった。アメリカでの写実主義者としてのラスキン像、フランスでの「印象主義の預言者」としてのラスキン像、この二つの影響を受けながらも、日本の造形美術の伝統と親和性のあるラスキンの絵画論を選択的に参照したのが、近代日本のラスキン受容である。第1期には友として、その後は先生、師として、西洋近代の美術と日本前近代の美術を媒介し、近代日本の美術・美術観の創出に間接的に介在したのが、ラスキンの美術論であった。", "subitem_description_type": "Abstract"}]}, "item_10006_description_32": {"attribute_name": "フォーマット", "attribute_value_mlt": [{"subitem_description": "application/pdf", "subitem_description_type": "Other"}]}, "item_10006_dissertation_number_45": {"attribute_name": "学位授与番号", "attribute_value_mlt": [{"subitem_dissertationnumber": "32606甲第297号"}]}, "item_10006_version_type_33": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": 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  1. 学習院大学
  2. 学位論文
  3. 博士(美術史学)
  4. 2020年度

近代日本における美術批評家ジョン・ラスキンの受容史(1884~1934年)

http://hdl.handle.net/10959/00004970
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名前 / ファイル ライセンス アクション
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Item type 学位論文 / Thesis or Dissertation(1)
公開日 2021-05-25
タイトル
言語 ja
タイトル 近代日本における美術批評家ジョン・ラスキンの受容史(1884~1934年)
タイトル
言語 ja-Kana
タイトル キンダイ ニホン ニオケル ビジュツ ヒヒョウカ ジョン ラスキン ノ ジュヨウシ 1884 1934 ネン
言語
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資源タイプ
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資源タイプ doctoral thesis
アクセス権
アクセス権 open access
アクセス権URI http://purl.org/coar/access_right/c_abf2
著者 三木, はるか

× 三木, はるか

WEKO 47650
CiNii ID 9000240233682

ja 三木, はるか

ja-Kana ミキ, ハルカ

en Miki, Haruka

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抄録
内容記述タイプ Abstract
内容記述 19世紀イギリスを代表する美術批評家ジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819-1900)の『近代画家論』(原題Modern Painters、全5巻、初版1843~60年)等の美術論、とりわけ絵画論は、近代日本の西洋美術理解にいかなる影響を与えていたのだろうか。
 近代日本のラスキン受容については、1970年代後半以来、社会思想史学者の木村正身によるラスキン関連邦文献目録(1977年、1982年)の集成に加え、1979年の「生誕160年記念ジョン・ラスキン展――御木本隆三ラスキン文庫より」、1993年の「ジョン・ラスキンとヴィクトリア朝の美術展」、1997年の「自然の美・生活の美――ジョン・ラスキンと近代日本展」、2000年の「ジョン・ラスキン:思索するまなざし――御木本隆三旧蔵書を中心に」等の展覧会開催を契機として、研究が進められてきた。展覧会・展覧会図録という性格上、ラスキンの著書や素描、その影響下にあった日本の画家たちの作例、邦訳書等の視覚史料によって受容の様相が鮮やかに描き出されてきた一方で、ラスキン受容の中核を成す言説については、これまで詳細な史的検討はなされてこなかった。
 本論は、『大日本美術新報』にラスキンの名が現れる1884(明治17)年から、御木本隆三が東京銀座に「ラスキン文庫」を開設する1934(昭和9)年までの半世紀を考察の対象とし、美術批評家としてのラスキンに関する言説はどのように語り継がれ、変化していったのか、語り手とその語りの内容を精査することによって、ラスキン受容の諸相を一つの通史として提示する試みである。考察に際し、日本近代の各言説の中でラスキンの言葉が日本語に翻訳されて引用された場合、可能なかぎりその出典となった原著と引用箇所の原文を特定した。これによって、各々の受容者がラスキンの膨大な著述の中からどの著作を選び、どの一節を引用し、それをどのように解釈・翻訳していたかを明確にした。
 この半世紀の受容史を通観するにあたり、1884~1895年までを第1期、1896~1916年までを第2期、1917~1934年までを第3期に区分した。その理由は以下による。まず第1期の受容の主要な担い手である岡倉覚三(1862~1913)、坪内逍遥(1859~1935)、松本源太郎(1859~1925)ら東京大学でフェノロサに学んだ知識人たちによるラスキンに関する言説の波が、文献史上1895年を境に収まること、その後は1896年に東京美術学校に増設された西洋画科で教鞭を執った岩村透(1870~1917)や久米桂一郎(1866~1934)ら美術学校の美術教育者たちによる言説が目立つようになること、1917年のロシア革命以後は、ラスキンを受容する社会的背景の変化により、その言説も大きく変化していったことによる。加えて「民芸運動の揺籃期」と呼ばれる、柳宗悦(1889~1961)とバーナード・リーチ(Bernard Leach, 1887-1979)の我孫子時代が始まるのも、第3期の初年1917年である。
 第1期の受容の特徴は二つある。第一に、『近代画家論』が美学的な関心から読まれていたことである。とくに第1巻の「〈美〉の定義(Definition of the term “beautiful”)」と「美術における偉大さの定義(Definition of Greatness in Art)」が集中的に引用されていた。〈美術〉とは、〈美〉とは何か、西洋の美術思想の根幹を成す基本的な概念定義がいまだ定まらぬ当時の日本にあって、その答えを尋ね求める過程で、ラスキンの美術論も読まれていたのである。
 第二に、日本の急激な近代化の「良薬」としてラスキンの思想を捉える視点が早くも見られることである。西洋近代を代表する思想家の一人としてラスキンを受容しながらも、その思想を通して、当時の日本にあって免れえなかった近代化、欧米化を反省的に眺める視点である。
 この第1期の受容に深く影響していたと考えられるのが、1890年の東京美術学校で開講された、アーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa, 1853-1908)の「美学」講義である。この講義の中でフェノロサは、洋の東西を越えた普遍的な〈美術〉の定義を模索し、19世紀の欧米で活躍していた批評家6名の論を紹介しているが、とりわけラスキンについて詳細に講じている。1878年に来日したフェノロサが1870年から1876年まで学んだハーヴァード大学・大学院は、アメリカのラスキン受容の立役者である美術史学教授チャールズ・エリオット・ノートン(Charles Eliot Norton, 1827-1908)が教えていた、いわばラスキン主義の美術教育の牙城であった。フェノロサは、ノートンの美術史講義を熱心に受講していたことが知られているが、エドワード・モースの依頼を受けて東京大学にフェノロサを推薦したのは、このノートンである。1891年以降、アメリカ版ラスキン全集の序文を著し、ラスキンの遺言執行者となるノートンに学んだフェノロサはしかし、厳格な写実主義者というラスキンの一面のみを強調し、その美術論が19世紀のアメリカ絵画に与えた弊害を激しく非難していた。こうしたフェノロサのラスキン理解の背景には、1860年代のアメリカでラスキンの影響下にきわめて写実的な風景画・静物画を描いた「アメリカのラファエル前派(American Pre-Raphaelites)」と呼ばれる画家たちの存在、中でもフェノロサ在学中のハーヴァードで教えていたチャールズ・ハーバート・ムーア(Charles Herbert Moore, 1840-1930)の影響が大きかったのではないかと考えられる。
 次に、ラスキン受容の第2期を担ったのは、上述した岩村と久米や、京都市美術工芸学校で教えた竹内栖鳳ら美術教育者たちと、島崎藤村(1872~1943)や小島烏水ら美術に造詣の深い文学者と登山家たちである。この期の特徴は次の二点である。第一に、洋画のみならず日本画、水彩画の各分野で広くラスキンの美術論が受容されたこと、第二に、日本の前近代までの造形美術の伝統を『近代画家論』の中に再発見する視点が散見されることである。
 まず洋画界では、久米の記事「ウィスラー対ラスキン及び印象主義の起源」(1904年12月)を通して「印象主義の預言者」としてラスキンの絵画論の詳細が知られるようになった。この雑誌記事は、先行研究では久米自身の論考とみなされてきたが、これは、フランスのラスキン受容史上、非常に重要な美術批評家ロベール・ド・ラ・シズランヌ(Robert de La Sizeranne, 1866-1932)の論考「ホイッスラー、ラスキン、印象主義(Whistler, Ruskin et l’Impressionnisme)」(1903年12月)の抄訳である。パリに1893年まで留学していた久米は19世紀末フランスのラスキン熱の影響下にあった。当初、雑誌『精華』に発表されたこの抄訳は翌年2月、水彩画論争の舞台である『明星』に、鹿子木孟郎(1874~1941)、三宅克己(1874~1954)らの記事と並んで再録されている。戸外の光と影をともに有彩色で描き、ワニスやビチュームを使わず、かつ色彩を分析して絵具を小さな点で置くように説いたことから「印象主義の預言者」と解釈されたラスキンの絵画論――主として『素描の基礎』(原題The Elements of Drawing、初版1857年)からの引用――は、近代日本の美術論争を背景に受容された。
 日本画界では、自塾に講師を招いて『近代画家論』を講読していたことが知られる竹内栖鳳(1864~1942)が、風景画家ターナー(J.M.W. Turner, 1775-1851)の作品とその擁護者であったラスキンの絵画論の影響下に《ベニスの月》(1907年)を描いた。本論では、その着想源の一つとして『近代画家論』所収の挿絵版画、ターナー原画《ヴェニスの税関舎とサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会》が考えられることを指摘した。また栖鳳は、ラスキンの絵画論が単に厳格な写実主義にとどまらないことを看破していた。その背景には円山・四条派の写生画に受け継がれてきた写意の伝統があった。対象の形似を越えて、精神性を表現することを重視した写意の伝統が、ラスキンの絵画論を受容する日本の土壌として機能したと言える。
 水彩画界では、登山家・紀行文家の小島烏水(1873~1948)の「ラスキンの山岳論」(1909~1910年、初出『みづゑ』)に見られるように、1900年代に流行した水彩画と登山の二領域を横断して活動した登山家と水彩画家たちが、ラスキンの山岳論、とくに『近代画家論』第4巻の「山岳の栄光(The Mountain Glory)」の感化を受けた。1905年創刊の水彩画専門誌『みづゑ』と同年創設の山岳会(現日本山岳会)を舞台に活躍した大下藤次郎(1870~1911)や丸山晩霞(1867~1942)ら水彩画家たちの活動は、烏水の『日本アルプス』(全4巻、1910~1915年)の挿絵に典型的な「山岳画」という新たな絵画ジャンルの誕生を促し、1936年の「日本山岳画協会」の設立へとつながっていった。
 1910年創刊の『白樺』によるポスト印象派の紹介を受けて、画家の主観・個性をことさらに讃える思潮が高まったが、これに対して、ポスト印象派絵画の背後にある西洋のアカデミズムの伝統と「自然研究、写実」の重要性を、ラスキンの絵画論を援用して訴えたのが、矢代幸雄(1890~1975)の「ラスキンの叫び」(1913年)である。この論考の中で矢代は『近代画家論』の第1巻と第4巻の「ターナーの地誌的風景画について(Of Turnerian Topography)」を参照し、ラスキンのターナー論において重要な作例《サン・ゴタールの峠道、ファイド近傍》(1843年、モーガン図書館・美術館)を挙げ、ラスキンが写実のみならず画家の想像力を重視していたこと、その根底に自然美への礼賛があったことを明快に説いている。1921年以降ノートンの弟子バーナード・ベレンソン(Bernard Berenson, 1865-1959)に師事し、日本の最初期の美術史家となる矢代が東京帝国大学在学中に著したこの論考は、美術史家としての矢代の原点にラスキンの美術論があったことを裏づけている。
 第2期の第二の特徴として、日本の前近代までの造形美術の伝統を『近代画家論』の中に再発見する視点が散見されることを指摘した。例えば、ラスキンの絵画論を写意の概念から理解した先の栖鳳の言説のほか、藤村の「雲」(1900年)や岩村の「ラスキン先生とアルプス山」(1911年)が挙げられる。藤村は、西洋近代の風景画の特長としてラスキンが第1巻で論じた写実的な雲の描写から、日本古来の造形美術の装飾モチーフである雲・霞を思い、さらに岩村は、第4巻の「山岳の栄光」と第3巻の「近代の風景画について(Of Modern Landscape)」を参照し、ラスキンの言説とスイスアルプスの山と水とを描いた水彩画の中に、日本の山水画の伝統を重ね合わせて見ていた。
 第3期には、柳宗悦の「工芸美論の先駆者について」(1927年)が示しているように、西洋の〈美術〉〈美〉の概念を消化した上で、それとは異なる日本の工芸、工芸美の理念を確立し、ラスキンのみならず西洋を越えていこうとする言説が現れる。ラスキンの美術思想は、産業化する社会における美術の在り方を問いなおす視座を備えていたからこそ、産業資本主義がもたらすさまざまな弊害が浮上した1917年以降も読み継がれていったと言える。また、銀座ミキモトの御曹司でラスキン研究家・コレクターの御木本隆三(1893~1971)が東京、京都、神戸で開催した「ラスキン先生遺品小展覧会」(1926、1931、1933年)を通して、ラスキン受容の裾野は、一部の工場労働者にまで広がっていった。
 なお、第1期から第3期まで一貫してラスキンを紹介していたのが徳富蘇峰(1863〜1957)である。蘇峰は1896年から翌年にかけての欧米視察時に、ノートンら英米の著名なラスキニアンたちに面会していた。『人物偶評』(1901年)での透徹したラスキン理解と、『国民新聞』の連載(全17回、1926年)での人間的共感にあふれた紹介が、日本のラスキン受容に果たした役割の大きさは計り知れない。
 以上のように、フェノロサから岡倉、岩村、久米、矢代、栖鳳まで、近代日本の美術教育の礎を築いた人々が、ラスキンを受容し、紹介していた。また蘇峰らジャーナリストの言説や、烏水や隆三ら個人のラスキン研究者が中心となって設立された山岳会や東京ラスキン協会の場を介して、ラスキンの美術思想は一般に知られるようになった。アメリカでの写実主義者としてのラスキン像、フランスでの「印象主義の預言者」としてのラスキン像、この二つの影響を受けながらも、日本の造形美術の伝統と親和性のあるラスキンの絵画論を選択的に参照したのが、近代日本のラスキン受容である。第1期には友として、その後は先生、師として、西洋近代の美術と日本前近代の美術を媒介し、近代日本の美術・美術観の創出に間接的に介在したのが、ラスキンの美術論であった。
フォーマット
内容記述タイプ Other
内容記述 application/pdf
著者版フラグ
出版タイプ VoR
出版タイプResource http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85
学位名
言語 ja
学位名 博士(美術史学)
学位名(英)
言語 en
学位名 Doctor of Philosophy in Art History
学位授与機関
学位授与機関識別子Scheme kakenhi
学位授与機関識別子 32606
言語 ja
学位授与機関名 学習院大学
学位授与機関(英)
学位授与機関識別子Scheme kakenhi
学位授与機関識別子 32606
言語 en
学位授与機関名 Gakushuin University
学位授与年月日
学位授与年月日 2021-03-09
学位授与番号
学位授与番号 32606甲第297号
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