@article{oai:glim-re.repo.nii.ac.jp:00000741, author = {木村, 裕一 and Kimura, Yuichi}, issue = {16}, journal = {学習院大学人文科学論集, Gakushuin University studies in humanities}, month = {Oct}, note = {application/pdf, 本論稿では、論証という修辞的実践の一形態が、いかに暗黙裡のうちに二分法を前提とした言及対象の配置―― 包含や排除―― を行っているかということを問題にしている。男/女、象徴的なもの/現実的なもの、文化/自然などの二分法は、「内部/外部」という位置的なメタファーとして、テクストのなかに明示化される。このような位置づけが不可避的に前提とするのは、位置づけうる何らかの対象が、言語の「外部」にすでに存在しているということである。だが他方でこのような「外部」は、それが言語的活動のなかで(そしてそれによって)行われている限りにおいて、すでに言語の「内部」で用意されてしまわざるをえない。本来言葉によって言い得ないはずの対象は、修辞的実践における二分法への位置づけをとおして、言語体系のなかへと導入され、はじめて(言い得ないものとして、つまり言語の「外部」として)言い得るものとなっている。以上述べた言語的現象を観察するため、本論稿ではフランツ・カフカの『歌姫ヨゼフィーネ、あるいはネズミの一族』において、(物質性[Materialität] としての)ヨゼフィーネの(歌)声や身体がどのように表象されているか、分析している。まずヨゼフィーネの声は、一方で象徴的把握から逃れる理解不能な「歌声」として、コミュニケーションから排除される。だが他方、「ネズミの一族はヨゼフィーネを理解できない」という自身に関する主張だけは聞き取られ、理解される。声に対する無理解と理解のあいだのこのような齟齬は、論証内でヨゼフィーネの声に対し、発話のための場を与えるか奪うか任意に決定することが可能であることから生じている。また、ヨゼフィーネの身体は論証のなかで、一族の集団的身体から明確に区別される。集団的身体は沈黙によって、コミュニケーションの外部に身体を輪郭づけ、論証内にそれを表象する。だが、言葉を伴わない沈黙や、一族の身体同士の結びつきによって生じる集団的な身体性は、決して非象徴的で自然なものでも、言語の外部で論証されることを受動的に待っている物質性そのものでもない。これらは、論証のなかで積極的に作り出された象徴的、言語的営為の産物であり、ヨゼフィーネの身体を任意に包摂、排除しているのである。テクストの最後でヨゼフィーネは消える。だがこの出来事はテクストの「外部」で起きたのではなく、論証からヨゼフィーネの場を抹消することによって引き起こされている。この意味で、歌う為に一族によって用意される舞台は最初から、ヨゼフィーネから発話の場を奪い取るために遂行的に貸し与えられた(非‐)場でしかない。だがヨゼフィーネは、あらかじめ奪い去られることが決定している場をむしろあえて引き受け、そこから発言するのである。そのような場から発せられる声は、二分法の適用によって秩序付けられた同一性を撹乱する。なぜならその声は、理解不能なものとして捉えられてしまう一方で、あくまでも与えられた場において有効な言葉を借りて発言している限りにおいて、一族が立っている場と同一平面上にある理解可能な声でもあるからである。一族や語り手、および既存の二分法に依存する読者にとって、その声は秩序に混乱をもたらすトラブルの種でしかない。だがこのようなトラブルが引き起こされることで、既存の二分法の適用可能範囲を疑問に付し、批判し、その範囲を拡張することが可能となることも事実である。したがって重要なのは、ヨゼフィーネの身体や声を、性急に既存の二分法へと位置づけるのではなく、その二分法に対し、それがいかに抗っているか、いかにそこへと簡単には属さないようになっているか、注意深く読むことである。}, pages = {67--89}, title = {Trouble zu lesen : Von der T(r)opologie des Ein- und Ausschlusses der Materialitat in Kafkas Erzaehlung Josefine, die Saengerin oder Das Volk der Mause}, year = {2007}, yomi = {キムラ, ユウイチ} }