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アイテム
江戸幕府馳走構造の研究
http://hdl.handle.net/10959/00005067
http://hdl.handle.net/10959/00005067b91896e6-70d2-42ca-bab5-410daa4fd925
名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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Item type | 学位論文 / Thesis or Dissertation(1) | |||||
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公開日 | 2021-11-05 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 江戸幕府馳走構造の研究 | |||||
言語 | ja | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | エド バクフ チソウ コウゾウ ノ ケンキュウ | |||||
言語 | ja-Kana | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_db06 | |||||
資源タイプ | doctoral thesis | |||||
アクセス権 | ||||||
アクセス権 | open access | |||||
アクセス権URI | http://purl.org/coar/access_right/c_abf2 | |||||
著者 |
望田, 朋史
× 望田, 朋史 |
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抄録 | ||||||
内容記述タイプ | Abstract | |||||
内容記述 | 本研究は、江戸幕府が大名に賦課した勤役の一つである馳走役について、その構造的特質の考究と全体像の提示を目的として、序章、全七章の本論と補論及び終章から構成されている。先行研究では故実書の記述に依拠して賦課基準が論じられ、事例追究の面でも、安永期の小城藩による有栖川宮馳走の際の幕府への拝借金要求とそれに対する本家も含めた御馳走人大名家への処分という一件に代表されるように、過重な負担をめぐる幕藩関係及び本家・分家関係の考察材料として馳走役は論じられてきた。幕末期の勅使馳走についての事例研究もある。如上の研究蓄積に学びながら、大名自身が勤めなければならないという馳走役の特質に着目して、「始終さむらう」という侍の本質がこの勤役中に如何に発現し、御馳走人大名自身に対する桎梏となったのか、その諸相を追究する。 序章では馳走役の先行研究整理を公家衆馳走と朝鮮使節馳走に分けて行い、その前提として 近世大名課役研究について門番役に焦点を絞り論点を整理した。門番大名家の「申合帳」や交代時の「申送帳」、先例集としての「置帳」といった勤番記録は、本論で考察する馳走役における「直勤帳」「内留帳」という記録と類似しており、また門番役において貴人通行時に一時的に現れるに過ぎないという儀礼的側面は、馳走役に具象化されているという視角を提示する。 第一章では、明治期以降に作成された写本が先行研究で使用されてきた『公家衆御参向之記』について、作者松岡辰方没後の加筆が無いとみられる原本に近い三冊本を平戸藩松浦家が所持していたことを報告する。江戸幕府への公家衆参向とその御馳走人の任命状況が記された松浦史料博物館所蔵三冊本を実見して、西尾市岩瀬文庫所蔵写本が当初の体裁を忠実に再現していることが判明した一方、松岡辰方の研究上の問題点を指摘する。馳走役の任命と同時に任じられる「代り」について松岡辰方には理解不足があることを指摘して、「代り」の大名が急遽勤めることになる事例の存在こそが馳走役の本質を表していると論じる。他機関も部分的に写本を所蔵していることが確認できるので、今後実見して松浦史料博物館所蔵本及び西尾市岩瀬文庫所蔵写本と比較する必要がある。松浦清の好奇心を満たす松岡辰方という両者の交流に止まらずに、本書の内容は御馳走人を勤める家が必要とした情報であったと考える。 第二章では、慶安四年(一六五一)四代将軍家綱の将軍宣下から文久二年(一八六二)攘夷の勅諚を携えた三条実美・姉小路公知の参向までの御馳走人一覧を提示して、時期区分をした上で御馳走人を数量的に分析する。時期区分については、大名課役としての馳走役の成立を御馳走人の準備期間が変わる寛文三年(一六六三)として、二つの画期を示した。第一の画期は吉宗政権期の享保七年(一七二二)歴代将軍の法会への勅使辞退による馳走役賦課数の減少、第二の画期は天明八年(一七八八)京都大火以降三年間の中止を経た後の寛政三年(一七九一)公家衆賄向仕法改正である。この二つの画期を境に第Ⅰ期~第Ⅲ期に分けて、馳走役賦課状況を通覧した。柳之間席大名への公家衆馳走役賦課が多いことは先学が指摘していたことだが、時代が下るにつれてその傾向は強くなり、役の固定化は馳走役にも見られることが判明する。公家衆馳走役に二〇回以上任じられている家は八家あるが、全て柳之間席の城主大名である。 第三章では馳走役の多くを担う柳之間席大名の家格順を確認して、その家格順と馳走役を勤める際の序列(「御馳走順」)が異なる場合にどちらの座次に合わせるのかという問題が、宝暦期以降繰り返し発生していた実態を明らかにする。具体的には、馳走役任命時の座順・馳走中の殿中座順・馳走所における座順・発輿届時の座順がその時々で区々であったが、殿中座順については文化九年(一八一二)に大目付井上利恭から、勅使馳走役を筆頭とする御馳走順ではなく従来の家格順とすることが示されて決着した。一方、馳走所における座順については文化一三年に御馳走順とする決定が出された。殿中においては、居並ぶ御馳走人の中で勅使馳走役が末席ということもあった。 第四章では、「盟主の如き」森忠賛・池田政直、「同盟」を作り上げた松浦清、奏者番へ進む「首謀」九鬼隆国、そして「老功之衆」たちという寛政期から天保期の柳之間席を導いた大名の変遷を追いながら、殿中における御馳走人及び柳之間衆のあり様を考察する。寛政四年(一七九二)の公家衆饗応能の日に、御料理頂戴席となる柳之間に陣取る帝鑑之間衆によって御馳走人が敷居外へ出される事態が発生した。この帝鑑之間衆との諍いを解決する方向へ導いたのは奏者番へ栄進する前の九鬼隆国である。この頃の柳之間席は、家格よりも大名個人の資質により主導権を握る者が現れている。その後、文政期から天保期にかけては、殿中にて集合の声が掛かった際の「大廊下中寄」という柳之間衆の作法について、目付への問い合わせを「病悩」の平戸藩主松浦煕が担い、煕に代わって岡藩主中川久教が目付の回答を聞いているように、家格相応に上席者がリーダーシップを発揮していたとみられる。そして嘉永期には「年功番頭」から選ばれた「取締」による改革へと進むことになる。 第五章では馳走役の勤務実態について二つの事例を検討する。熊本藩細川家の分家大名である宇土藩細川家の馳走役の際には、同じ分家で定府の熊本新田藩主(熊本小矦)から多くの先例を得ていたことが分かる。その中には各回の御馳走人が高家肝煎へ提出する伺書もあり、冒頭には馳走所表御門番所に据え置く鉄炮・弓・長柄・三道具などの武器と番人の員数伺いが記されている。これは、柳之間席大名が門番役を担当する諸門に備える員数とほぼ一致しており、馳走役が門番役と同様に軍役としての性質を有していたことを示していると考える。次に取り上げたのは麻布善福寺を馳走所とした幕末期の新発田藩溝口家による摂家馳走である。御馳走人溝口直溥の自筆とされる歌日記を史料として、これまで描かれてこなかった御馳走人像を提示する。馳走所への老中の来訪が済み、御馳走人の溝口直溥が草臥れてひと眠りして目が覚めると、家中一同も疲れて居眠りをしていて、そのまま夜更けまで喧しく鼾と寝言が聞こえる、あるいは馳走対象の近衛忠房が遊覧に出ている間に、御馳走人は酒盛りをしていたという実態があった。馳走の最中に「この頃のうさもはらし」という御馳走人大名の姿を紹介する。 第六章では、朝鮮使節の道中馳走について先行研究が等閑視してきた自領から離れた遠隔地に赴く御馳走人大名を宝暦度神奈川における新発田藩主溝口直養を事例として取り上げ、幕閣・京都所司代・大坂城代・対馬藩などと緊密な情報の遣り取りをしていた実態を考察する。御馳走人大名自身は朝鮮使節の馳走地到着直前まで江戸屋敷に滞在しており、担当する馳走地を使節が通過する時には現地に赴き、使節が通過すると一旦帰府して、使節が帰路再び馳走地を通過する時には、往路と同様に直前に馳走地に赴いているに過ぎない。各地の御馳走人大名たちが三使に対面して菓子折りなどを呈上している様子は朝鮮使節の使行録に記されるが、この時の溝口直養は任地に赴きながら三使と直接は対面せずに、家臣に任せた。公家衆馳走と比較して、朝鮮使節の道中馳走では大名自身よりも家臣団の働きが大きいという性質を見る。 補論として、朝鮮使節来日時に江戸から岡崎(正徳度は駿府)へ遣わされる上使について検討する。天和度までは無位無官の先手頭や使番が遣わされていたが、新井白石により諸式改変された正徳度は従四位下の位階に叙され官職に任じられた奥高家が駿府へ赴いており、「天和の旧例」に復したとされる享保度は、場所は岡崎に復し奥高家は遣わされなくなったが、奥高家以上の表高の叙爵された大身旗本が遣わされ、延享度と宝暦度に踏襲された。天和度岡崎にて日朝間の「官」の認識をめぐる齟齬があり、その直後に入府した三使に対して、江戸における御馳走人の中津藩主小笠原長勝の名代を勤めた娘婿小笠原大助は無官を理由として対面しなかった。次回正徳度には、新生白石が川崎にて使節を出迎えているが、白石の叙爵はその僅か六日前のことであった。天和度岡崎の一件は、朝鮮使節に応対する者の官位を幕府が気に掛ける契機となったと考えられる。また、使行録については武鑑を参考にしていることが窺えるが、御馳走人の人名表記からその一次史料としての性質には再考の余地があることを指摘する。 第七章では、正徳度の朝鮮使節来日時に国書の犯諱をめぐって幕府側と使節が対立し、江戸で取り交わした日朝両国の国書を一旦差し戻して、改書された国書を帰路対馬にて再交換することになった一件をめぐる対馬藩の行動原理を追究する。使節の帰路途中での再交換が決定した時点では、上使が将軍返翰を持って対馬まで赴き、上使と三使の間で国書再交換を行うというのが幕府の方針であった。使節の対馬逗留が長引くことに加えて、江戸から上使が来島することにより生じる更なる馳走負担を避けるために、対馬藩は幕府と使節双方に働きかけ、その結果として上使は来島せず、対馬藩主と三使の間で国書再交換が行われた。 終章として、馳走役研究が近世大名課役研究の一角に止まらず、幕藩関係・近世政治史研究に新たな視角を提供できる可能性を示しつつ、今後の課題を述べる。本研究では帳簿を繰るような手法を取らなかったが、今後の課題の一端として、公家衆賄向仕法改正後の御馳走人の負担を天保期の久居藩藤堂家と安政期の臼杵藩稲葉家の事例から検討する。何れも足守藩木下家が作成した写しであり、馳走役関係史料が当該大名家に留まらず、他家にとっての「先帳」となる実相を提示する。全国各地に点在する関係史料の総合的把握により、負担の実態のみならず課役に向き合う御馳走人の意識とその変化に迫ることができるのではないかと考える。 |
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フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
学位名 | ||||||
言語 | ja | |||||
学位名 | 博士(史学) | |||||
学位名(英) | ||||||
言語 | en | |||||
学位名 | Doctor of Philosophy in History | |||||
学位授与機関 | ||||||
学位授与機関識別子Scheme | kakenhi | |||||
学位授与機関識別子 | 32606 | |||||
言語 | ja | |||||
学位授与機関名 | 学習院大学 | |||||
学位授与機関(英) | ||||||
学位授与機関識別子Scheme | kakenhi | |||||
学位授与機関識別子 | 32606 | |||||
言語 | en | |||||
学位授与機関名 | Gakushuin University | |||||
学位授与年月日 | ||||||
学位授与年月日 | 2021-10-01 | |||||
学位授与番号 | ||||||
学位授与番号 | 32606甲第300号 |