@article{oai:glim-re.repo.nii.ac.jp:00004961, author = {高柳, 信夫 and Takayanagi, Nobuo}, issue = {18}, journal = {言語 文化 社会, Language, Culture and Society}, month = {Mar}, note = {application/pdf, 五四運動前後の中国で展開された「新文化運動」といえば、かつては陳独秀、胡適といった、雑誌『新青年』に深く関わった人々の系譜のみが突出した存在であるかのように描かれることが多かった1。しかし、近年では、当時の「新文化」建設をめぐる議論の多様性にも注目が集まるようになっており、その中で、1920 年代の梁啓超の思想的営為も有力な「新文化」建設の試みの一つとして評価され、彼がめざした「新文化」の「方案」については、相当程度の研究の進展が見られる。 とはいえ、梁啓超の「新文化」についての議論は、極めて多岐にわたり、また、時期によって、その議論の内容が微妙に変化しており、その構想の全体像はまだ十分明らかにされているとは言いがたい。 もちろん、その作業はこの一篇の小論だけでなしうることではないが、本稿では、「学問のあり方」をめぐる1920 年代の梁啓超の議論を取り上げ、彼の「新文化」構想の一側面を明らかにすることを試みたい。}, pages = {19--42}, title = {「学問」は何のために?――1920 年代の梁啓超の「新文化」建設構想をめぐる一小論}, year = {2020}, yomi = {タカヤナギ, ノブオ} }