@phdthesis{oai:glim-re.repo.nii.ac.jp:00004861, author = {西田, かほる and Nishida, Kaoru}, month = {2021-02-25, 2021-12-09}, note = {本書は甲斐国山梨郡上於曽(おぞ)村(現山梨県甲州市塩山)の菅田天神社に伝存する史料を主な分析対象として、近世における甲斐国国中(くになか)地域の社家組織について検討するものである。一地域における社家組織の変遷をたどる中で、社家の身分とその活動、そして社家の立場からみた神社・氏子との関係について考察する。甲斐国では小規模の社領をもつ一村の氏神社を一人の神職が進退することが一般的で、複数の社人を抱える大社は少ない。また、近世期を通じてほぼ一国幕府領であり、藩による支配はごく限られた期間のみであった。これらの特徴を前提として、当該地域の社家の動向を中世末から近代初頭まで見ていく。これにより、近世の神職を考える素材とする。  第1部は、勤番制度の成立から終焉に至るまでを時系列にそって論じる。甲斐国国中地域には、永禄三年(1560)から戦国大名武田信玄により氏神である府中八幡宮へ一六〇余の禰宜が二夜三日参勤する勤番制度が敷かれた。武田氏が滅びると、勤番制度は徳川諸陣に祓を献上した吉例により、五月・九月に一六〇社の禰宜が府中八幡宮に参集し二夜三日の祈祷を行って将軍に祓を献上するという制度を加えて江戸幕府に引き継がれた。この制度の成立から消滅までを追ったのが1部である。第1章「勤番体制の成立」は、武田氏による勤番制度制定の意図および徳川氏による再編の様相を考察することで、勤番制度によって神職身分の形成が促され、国中地域において神職による同職者集団が成立したことを述べる。第2章「八幡宮支配体制の成立」では、勤番場所であった府中八幡宮と勤番社家との争論を通じて、神職の本所吉田家との関わりとともに、宝永二年(1705)に甲府藩が勤番体制を府中八幡宮神主を頭とする支配体制へ転換したことの意味を明らかにする。第3章「勤番体制の深化と変容」では、勤番社家は勤番体制へ反発しながらも、自らの利害と家の成立に伴う集団化によって、勤番社家自身が勤番体制を維持し深化させていった様子を見る。第4章「勤番体制の形骸化と社家の言説」では、社家が勤番から離脱するために駆使した巧みな言説と神職家の由緒を検討することにより、勤番体制という組織に頼ることなく社家個々の家が社会的に自立していたことを述べる。第5章「勤番制度の再編」では、勤番体制の再編をめぐる社家の対立と府中八幡宮神主の跡式相続をめぐる争論から、神社と神職の結びつきを考察する。これらの章を通じて、神職身分の確立、神職の家と組織の連関について述べる。  第2部は、菅田天神社を主な対象として、同社神主と兼帯社との関係、分家との争論、同家の活動を支えた経済活動について検討する。神社は村を単位とする氏神のみならず、組や個人が祀る小社や祠などが多数あった。それらは鍵取などと称する百姓が日常的に管理したり、修験らが進退したりする場合がほとんどであった。第6章「兼帯社支配にみる神主と氏子」では、神社支配をめぐって百姓、修験らと勤番社家が対立する様相をみた。勤番は将軍へ祈祷巻数を献上するものであり、勤番社家は天下や国家を主張して社会的権威を高めると同時に兼帯社の支配をすすめていくが、それは逆に村方から勤番社家が遊離していくものでもあったことを述べる。また、近世の神職を検討する上で重要なのが家である。第7章「神社経営における神主と氏子」では、菅田天神社神主と分家の神主が神社の進退をめぐり江戸時代を通じて争論を繰り返していたことをとりあげた。神社経営が神事の執行、社地(社領)の経営、社頭の管理を基本とすると考え、神主と分家の争論が、実は社家と氏子との神社経営をめぐる相克であることを示した。第8章「神主の経済活動」は、菅田天神社が所蔵する楯無鎧を寛政五年(1793)に将軍に上覧したことを契機に、源氏ゆかりの武士などへ積極的に拝覧を働きかけた活動を取り上げる。鎧に関わる由緒の変遷をみるとともに、江戸での社家の諸活動を通じて、手筋や伝聞の影響力、考証学や好古趣味の高まりなど、寛政期から文化・文政期の社会の特質も垣間見る。  第3部は、武田信玄が勤番を免除した一〇社を取り上げる。免除社を設定した武田氏の意図と免除社の江戸時代における実態を論じることにより、逆に勤番制度の特質を明らかにするものである。従来勤番免除社の存在は武田氏の宗教政策の限界と捉えられてきたが、第9章「勤番除社の成立」では、勤番免除社の祭礼や神宮寺を含めた広範な信仰圏のあり方から、勤番社と免除社によって国中地域に重層的な信仰圏を作りだすものであったことを指摘する。第10章「地域大社の実態について」では、勤番免除社のように広域の信仰圏を持ち地域の核となる神社を地域大社と定義し、窪八幡宮(八幡北村、現山梨市)と市川御崎明神(上野村、現市川三郷町)を取り上げた。近世中期以降、勤番社をはじめ一宮や二宮では社内における仏教要素を排除して近世化を遂げていくが、両社は神仏習合を維持するなど独自の活動を続けたことを紹介する。さらに地域大社の配下神職を見ることによって、陰陽師などの芸能的宗教者が成立する要因を神職との経営基盤の違いにみた。補論「国中地域の神社朱印状について」は勤番体制を考える上で重要な社領の基礎的データを提示する。  終章は、全体のまとめ・課題とともに、幕末から明治初期の勤番社家の動向として、草莽隊への参加と士族編入願を取り上げる。勤番社家は兼武神主と称し、武士を志向した。神職の草莽運動への参加はこの一つの表れであり、士族編入願は近世における社家の活動の帰結ととらえた。神職の世襲が廃止されるなかで、神職の家あるいは身分へのこだわりと、明治政府の対応のなかに、近世から近代への転換をみる。, application/pdf}, school = {学習院大学, Gakushuin University}, title = {近世甲斐国社家組織の研究}, year = {}, yomi = {ニシダ, カオル} }