@phdthesis{oai:glim-re.repo.nii.ac.jp:00004859, author = {三潴, みづほ and Mitsuma, Mizuho}, month = {2021-02-25, 2021-12-09}, note = {ハプスブルク朝支配下のイベリア半島を中心とした複数の王国(reino)の集合体は、スペインという括りでの国家として成立していたわけではなかった。君主が複数の王冠とともに諸王国の政治形態や法を踏襲しながら支配する体制であった。16世紀から17世紀にかけては、概念上で「スペイン王国(Monarquía HispanaあるいはMonarquía de España)」 の形成が進む。その過程では実際に政治的統合への志向も見られるなか、中心となる王のあり方が模索された。スペインの王としての権威を示すこととカトリック性の確保は分かち難く結びつく。 17世紀初頭、イスラーム教からキリスト教に改宗したモリスコ(morisco)と呼ばれる住民たち約30万人がスペインから追放された。カトリックに改宗していたとはいえ、モリスコは異端としての疑いをかけられがちな存在であった。フェリペ3世のこの決断は、追放を擁護する者たちにより「英雄的な決断」と称賛された。本稿では、王とその周囲の人々がスペイン王国の形成を意識するなかで、モリスコへの方針がどう推移したのか、政策議論を中心に検討する。即ち、スペイン王国の形成過程をモリスコ問題から照射し、その上で、モリスコ追放に踏み切った動きを解明する。  モリスコ問題から見るスペイン王国の概念上の形成について、モリスコの実態と統治状況、宮廷での審議、献策書という要素を用いて分析した。まずモリスコの実態と状況を確認し、それに対し宮廷での審議がどのように絡むか時系列で追い、そのうえで献策書という史料がどのように解釈できるか、という構成で考察を進めた。  問題の所在として「スペイン王国の形成とモリスコ問題」という観点から、特に、「宮廷」研究のホセ・マルティネス・ミリャンと「寵臣政治」研究のアントニオ・フェロスという、政治史の見直しからモリスコ問題を捉えた二人の説に着目した。モリスコ問題についての説を整理したうえで、二人の間の異なる見解の存在に言及し問題点として提示した。  マルティネス・ミリャンは、フェリペ2世期のスペイン・カトリシズムによる普遍君主政(教会をも従えようとする)の頓挫と、その後のフェリペ3世期のローマに従うカトリック王政への転換(ローマのスペインへの勝利)、という文脈のなかで、モリスコ追放を捉えることを提起した。フェリペ2世期の普遍君主政も、フェリペ3世期のカトリック王政も、当時のスペイン王国を論じた者たちによってその理論的裏付けがなされ、それらがスペイン王国を支える理念となったのは確かである。しかし、その転換が政治中枢のなかでどのように作用したかという点において、宗教性の違いに着目したミリャンの論は、政治決定の場における諸事の検証の可能性をもたらした。   この転換を通して、モリスコ問題と対峙する、スペイン王国という形成途上の概念と、それを取り巻く政治中枢の人々を見ると、何が見えてくるのか、という視点から、ミリャンの説が妥当か、あるいは他の見方が説得力があるのか、検証をこころみた。スペイン王国の概念上の形成過程とモリスコ問題の推移を関わらせて論じ、王とその周囲のモリスコ関連の政策議論の史料の見直しを行った。目指されたスペイン王国とは何なのか、それにモリスコ問題に関わる一連の議論がどう関わっていくのか。宮廷とその周辺で繰り広げられた議論を、モリスコ問題がより顕在化するフェリペ2世期から3世期に焦点を絞って分析した。 16世紀前半から異端審問所と在地権力による統治の模索のなかでモリスコの存在が徐々に問題視される。フェリペ2世期になってから王権と異端審問所の各地への介入が増したことは、王権による政治的統合の動きのなかでモリスコの統治策が重要視され始めた兆候と考えられる。地域ごとの異なる様々な事情を越えて、モリスコという存在自体に問題を一元化するという傾向が生まれ、それが統治策に表れ始めた様子が確認でき、また、フェリペ2世と3世の統治下で彼らの存在がモリスコ問題としてより顕在化していく経緯を確認できた。 宮廷におけるモリスコ関連審議については、フンタ(評議会)と国務顧問会議を中心に取り上げたが、16世紀末に両方でモリスコへの措置をめぐる議論がなされるようになった当初は、2つの会議で温度差があった。フンタは1590年代初頭までは一貫して教化の方針であったが、国務顧問会議では1588年に初めてモリスコ問題が議題にのぼった時から、モリスコに対する姿勢はフンタのそれより強硬であった。その後フンタの構成員は国務顧問会議の構成員と一致するようになり、モリスコ関連のフンタは国務顧問会議に吸収されたような形になった。国務顧問会議には教皇派あるいは教皇とつながりのある人物が確実に入ってきており、教皇派が追放を推進したとするミリャン説の妥当性が確認できた。 その上で、モリスコ問題の史料として充分に注目されてきたとは言い難い献策書に史料価値を見い出し、分析を行った。献策書がモリスコ問題を扱うなかで、中世の頃の多様性の容認とは異なり、当時のスペイン王国にとって様々な出自の人々を臣民として統治することの難しさが増していることが浮き彫りになった。献策家たちにとって国力の源であった生産性と人口の多さと富という点において、モリスコの特質は有用であった。この特質をスペイン王国が獲得するべきであり、モリスコの持つ負の要素は克服されるべきものであった。献策書という、諸問題から国家統治を考える政治の文学とも言うべき言説と、モリスコ問題という題材が組み合わさることにより、献策家たちによる新たな国家像の模索が見られた。そこに描かれていたのは、モリスコという存在に利点を見出して臣民に組み込むという、彼らの考えるスペイン王国の正しい姿、あるべき姿であり、これは、宮廷の教化策推進者たちと志を同じくするものである。 教皇から霊性を賦与された神聖ローマ帝国に代表されるようないわゆる普遍君主政を取り入れたかったフェリペ2世のスペイン王国だが、そもそも皇帝がおらず、そのため、実情に合わせた解釈のし直しが行われ、そのうえで、スペイン独特の性格を賦与されたものとして作り変えられた。それは、軍事力のような実践的な側面から、スペイン王は皇帝に、スペイン王国は帝国に比肩する存在である、という解釈に基づく。そこに正当性を持たせるため、レコンキスタへの十字軍の経験などに基盤を置く、スペイン独自のカトリックの系譜が重きを成してきた。したがって、スペイン王国の普遍君主政やスペイン・カトリシズムを背負った世界進出は、本来のローマ教皇のもとの世俗君主のあり方からは外れかけ、ローマ教皇庁からスペインを牽制する動きも見られた。版図拡大の負担と対外情勢の厳しさが増した頃、スペイン王国は新たな理念を模索し、ローマとの利害の一致を見出し、カトリック王政へと転換することになる。 モリスコは、最終的には、個人にしか罪を問えない宗教上の罪ではなく、集団全体への罪を問える国家反逆罪として追放された。スペイン王国にとって宗教的・「民族」的マイノリティーであるモリスコの存在が多くの議論を呼んだことでも明らかなように、この時代に臣民として彼らを扱うことは各側面で難しさがあり、その存在がスペイン王国の転換を促す触媒の役割を果たしたと考えられる。, application/pdf}, school = {学習院大学, Gakushuin University}, title = {スペイン王国の形成とモリスコ問題―16世紀後半から17世紀初頭の宮廷会議と献策家の政策論を中心に―}, year = {}, yomi = {ミツマ, ミヅホ} }