@phdthesis{oai:glim-re.repo.nii.ac.jp:00004855, author = {莊, 卓燐 and Chong, Cheuklun}, month = {2021-02-25, 2021-12-09}, note = {本稿では中国古代帝国の権力構造に焦点を当て、戦国・秦・漢といった帝国形成期における社会の変化に沿い、符を媒介としてその「統一」の実態に迫った。全六章の構成のとなっており、各章の考察の概略は以下の通りである。  序章では、中国古代社会の特殊性を確認し、戦後中国古代史研究の成果と課題を整理し、符による権力構造論を展開する可能性を提示した。東アジアの諸国家の中で、中華世界はいち早く国家を形成し、文明を構築してそれを周辺地域へ伝播した。そして秦漢帝国の形成は、東アジアという中華文明によって繋がる多文化地域の源泉と言える。戦後の中国古代史研究は、秦漢帝国を古代国家の完成形とみて、その権力構造の解明に積極的に取り組み、多くの成果を上げてきた。西嶋定生・増淵龍夫・木村正雄の三氏を中心とする秦漢帝国史論は、権力構造論から出発し国家構造論まで提示され、今日の中国古代史研究に大きな影響を与えている。とりわけ、皇帝の賜与物を媒介とする研究手法は、「爵制的秩序」の構築においてその有効性を証明された。先行研究が解明してきた社会構造に立脚した上で、本稿では同様に皇帝の賜与物である符に注目し、近年に発見された出土文字史料を活用し、従来と異なった角度から新たな権力構造論に挑戦する。それを可能とするのは、中国の西北地域で発見された通行証とその運用について言及した記録であり、または律令の規定を記した法律の条文である。これらの出土文字史料から符の記載を抽出し、伝世史料に垣間見える符と関連させ、皇帝が臣下に賜与した符の意義を追究することを目的とする。本章は基礎的な史料を確認しながら、符による権力構造を構築する意義を示した。  第一章では、符をめぐる諸研究を整理し、通行証としての符と皇帝権力に関わる符との関係性を明白にし、符による権力構造論の時代的有効性を確認した。伝世史料に散見される符の記述に対して、従来では「わりふ」という形態に着目し、信用のシルシとの理解に基づき多様に符を解釈してきた。ところが、同年代に「わりふ」という形態の媒体は数多く知られており、それぞれの媒体はそれぞれの特性を持つ。数多の「わりふ」の中で符を選択した政治的意図を理解するためには、符の実用性の中でそれを求めなければならないのである。中国の西北地域における発掘調査が進行する中で、「符」の文言が付く媒体は幾つも発見されている。細部の規定に基づいて幾つかの類型に分類できるこれらの符であるが、全ては関所通過という共通の使用目的がある。とりわけ出土史料に見える六寸符は通行証であると広く認識されている。符という媒体はその長さによって用途が定まる側面があることを踏まえれば、秦の始皇帝が規定し漢の高祖が継承した皇帝権力に関わる符とは、通行証の性格を持つ媒体であると特定できる。そして古代中国における通行証の使用は、秦漢時代の法律規定や地域観念からして連続性を持つ。したがって符を通行証とする理解は、戦国・秦・漢といった帝国形成期において有効であると認められた。  第二章では、符と節と符節の三者の関係性を整理し、皇帝が所持する符の実態を考察した。符と節を基礎とした「符節」語は、時代が変遷するにつれてその実態が見失われ、やがて「符」語と「符節」語が伝世史料に混在するようになった。符と符節との関連を究明するため、本章では近年に発見された出土文物を利用して、両者の中間に位置する節を対象に考察を加えた。節の法則性を整理した上で、節の一類型である虎節と、符の一類型である虎符を比較すると、両者とも符節に該当する媒体であると結論づけられる。君主(王/皇帝)を命令の主体とした媒体のうち、一様に符の一文字で伝世史料に表記されたものの実態は全て符節の略称であり、通行証の機能を付与した節であると解明できた。これにより、皇帝権力と関連する符と一般民衆が所持する通行証そのものの符とは性質が異なると言える。さらに、通行証という媒体の共通する性格に注目して、本章は漢代の虎符と竹使符を考察した。虎符の使用は、軍隊による集団的な関所通過と関わる。虎符を与えられた将軍は、片方を残して出陣し、帰還する時に持参したもう片方を関所に送り、敵味方の識別として関所の警戒を解かせ、帰国の保証を得た上で国外へ出陣する。したがって関所通過を必要としない場合には、虎符を使用しない例外的な発兵事例が見られる。そして虎符の銘文を手掛かりに、中華世界は君主符の時代から国符の時代へ移行した、中国古代帝国の形成期における時代性の変化が見られる。一方で竹使符は、皇帝が招聘したい対象を地方から中央へ召喚するために用いられた。漢代の郷挙里選と関連し地方の人材を中央に招聘する目的があると同時に、地方の宗室を皇帝の後嗣として中央に招き入れる事例も見られる。それはつまり文帝が帝室を固定させるために、竹使符を利用して皇帝継承の主導権を中央に集約した意図があったと言える。  第三章では、秦漢帝国が成立する以前の時代に焦点を当て、いわゆる帝国形成前史の符を対象に考察し、国符を用いて君主符に取って代わった漢帝国の政治的意図を探求した。戦国時代には「置質剖符」といった外交を繋ぎ止める措置が行われていた。置質すなわち質子の派遣は、殷周時代の史料で既に言及され春秋時代に多くの事例が見られるようになった。しかしながら、春秋時代の質は戦争行為に付随するものである性格が強く、その機能は人質の範疇を越えるものではなかった。それに対して戦国秦の事例を基にすれば、戦国時代の質には外交官の側面が見られ、当該時期には強弱の関係を度外視して国家同士が質を交換していたと思われる。したがって春秋時代と戦国時代とは質が発揮した機能が異なる、といった先行研究の指摘は大いに首肯できる。戦国時代の外交を支えた置質と剖符の措置は、ともに春秋末期から戦国初期にかけて成立したものであると考えられる。戦国燕の楽毅の事例を通して、外交官としての質子が符を使用した痕跡を確認できる。それは、外交官としてあるいは使者として多地域を往来する時に、境界線上にある関所を通過するための通行証であった。国家の総体を符に表記していたであろうこれらの符は、国符と呼ぶべき媒体であり漢初の国符と共通している部分があるように思われる。戦国時代における国符の使用は、関所という定点の通過のみに限定されず、点と点を結ぶ線すなわち関所と関所の間にある道路の使用権にも関連する。こうした関係を肯定した上で、剖符と春秋戦国時代の借道との関係が浮び上がる。突き詰めれば国符を交換する措置は、長城の設置によって地域と地域との隔たりが深まった事情に由来すると窺える。本章の考察において、質子が符を使用する事例から協力し合う関係が見られ、剖符に対して置質で対抗した事例から牽制し合う関係が見られる。置質と剖符はこの二面性を持ち、相互に影響しながら戦国時代の外交ひいては「国際」秩序を支えていたと見られる。  第四章では、秦帝国の統治において最も代表的な「移動」として、始皇帝の天下巡行に注目し、伝世史料と出土文字史料を合わせて巡行の実態を考察し、皇帝と交通との関係を通して皇帝符の一側面を検討した。『史記』に記載された五回の天下巡行の他に、出土文字史料である『嶽麓秦簡』に六回目の巡行を示唆する条文が見られた。当該条文(『嶽麓秦簡(肆)』簡五六~簡五八)の分析により、始皇帝の二六年巡行は秦帝国の最南端である蒼梧郡を目的地とし、資水・沅水・微水・澧水などの河川を渡り、南から北へ、江水と湘水が交差する所に向かい、そこに位置する湘山に至ったとわかる。始皇帝の巡行を示した一次史料に該当する『嶽麓秦簡』の条文であるが、『史記』所載の五回の巡行との比較により、司馬遷は取捨選択の結果を経て二六年巡行を採用しなかったと推測される。すなわち、二七年巡行と三二年巡行との比較からわかるように、二六年巡行は始皇帝の対南方戦争の一環として捉えられ、巡行の実在性は信用に値する。ところが、司馬遷には始皇帝の巡行を復元するに当たって、石刻史料や交通路線の記録などを頼りに『史記』を記述した傾向がある。したがってそれらの要素を持ち合わせていない二六年巡行は不採用となった。その上で、『史記』に採用された二八年巡行の記載には、二六年巡行に見える樹木の保護とは真逆の行為が見られ、湘山での行いの矛盾が司馬遷の判断を左右したと考えられる。司馬遷が依拠した史料には、おそらく関所の通過記録の他に、符をはじめとする通行証も含まれていたと考えられる。それを手掛かりに、皇帝が符を媒介として交通権の独占を図った一端が窺える。  第五章では、漢初における諸侯王・列侯との剖符事例を整理し、漢皇帝が符を下賜する意図を検討する中で、漢帝国内部における符による権力構造の展開を考察した。漢の高祖劉邦が秦王子嬰より符を継承した途端に、関中地域を拠点として符を漢王国の支配体制に組み込んだ。楚漢戦争期において、劉邦は漢王として連合軍を組織する中で、函谷関の通過を掌る符を趙耳・韓信に分け与えた痕跡が見られる。それは連合軍の本拠地である関中地域への進出の可否を決定し、王同士の中で漢王の格上げにも繋がる措置であった。漢帝国が樹立したのち、剖符の措置を継続した漢は、諸侯王である韓王信・彭越・黥布と剖符したと見られる。漢帝国の支配体制のもとで、諸侯王は一定の間隔で都長安を訪れ、漢皇帝劉邦と会見を行った。その際の通行証としての符は関中地域に進出する機能を持ち、漢帝国と諸侯王国を繋ぐ重要な役割があった。一方で、漢帝国の支配領域の拡大及び支配体制を維持するため、漢の高祖劉邦は諸侯王のみではなく、一部の列侯にも剖符の措置を施した。その中には「符を剖かち、世々絶ゆる勿し」の条文が示すように、自由に関中地域を出入りできる特権を永続的に所持する特殊な剖符事例が見られる。漢皇帝が功臣に移動の特権を分与して地方への浸透を図ったと同時に、関中地域への帰還の保証として符を賜与した。皇帝と功臣との親密な関係を維持させる意図が見られるなか、符は両者の間に精神的結び付きとしての役割を果たしたと言える。そして移動状況が変化していく中で、功臣の爵称は「徹侯」から「列侯」へと改変する。中国古代社会は漢初と漢代中葉の間に、流動的形態から固定的形態への情勢変化が読み取れ、漢帝国内における政治体制変革の一端が窺える。  第六章では、扜関と周縁地域との接続関係を整理し、外国政権を対象とする剖符の意図を検討する中で、漢帝国外部における符による権力構造の展開を考察した。戦国から秦漢にかけての扜関に関連する史料を整理した結果、扜関は当該地域の東西交通を繋ぐ役割のみではなく、南北交通を繋ぐ役割も見られ、漢帝国の都心部と南方の周縁地域とを連絡する役割があったと窺える。したがって漢の都長安と扜関との間に、地理的な隔たりこそあるが、扜関までの範囲は漢帝国の直轄領域となり、扜関を関中地域の区切りとする意見は首肯できる。一方で扜関を要所とする漢代交通の実態において、巴蜀地域・旧楚地域・長沙王国・南越王国との連繋が見られるなか、巴蜀地域は西垂の交通路線を利用する傾向があり、旧楚地域と長沙王国は武関の通過を正規な交通路線とする傾向がある。したがって南越との接続は扜関の最も重要な役割であったと想定される。こうした南方交通の中で、符が漢・南越・長沙の三者の関係に介在したと考えられる。限られた史料の中で漢越貿易の全貌が見えないが、少なくとも越は漢から日用品、漢は越から贅沢品を売買したことがわかる。複数の移動路線が存在する中で、漢は特定の関所しか通行できない限定的な通行証である符を用い、扜関ルートの使用を南越に強要して険悪な関係にある長沙との接触を避けさせた。そのことに交通路線を制限して辺境地域の紛争を抑止する意図があったと言える。このように「二年律令・津関令」に見える扜関を媒介とし、漢帝国・長沙王国・南越王国三者の関係に介在する符の役割を分析し、交通から派生した権力を用いた、漢の遠隔支配のあり方を検討した。, application/pdf}, school = {学習院大学, Gakushuin University}, title = {中国古代帝国の交通と権力―符による権力構造論―}, year = {}, yomi = {ソウ, タクリン} }