@phdthesis{oai:glim-re.repo.nii.ac.jp:00004854, author = {林, 大樹 and Hayashi, Daiki}, month = {2021-02-25, 2021-12-09}, note = {天皇はその存在意義を変えつつも未だ存在している。かつてその支配を支えた朝廷の実態を明らかにすることは、現代における天皇や国家のあり方を考えるうえでも重要な研究テーマである。天皇制・国家体制のあり方をめぐり、明治時代以後、天皇・朝廷研究は同時代的課題を背負っていた。しかしながら、政府の進める修史事業は政治や予算の問題とも絡み、史料編纂にとどまった。通史叙述も実証的側面とともに皇国史観の影響を色濃く受けていた。第二次世界大戦後、皇国史観への反動から天皇・朝廷についての実証的な研究は進められず、戦前の研究成果に依拠した理論的なものが多かった。家永教科書検定訴訟では、天皇を君主とする修正意見に対し、実証的研究の不足から歴史学界は十分な議論を行いえず、課題を露呈することになる。それまでの研究は文字通り「朝幕関係」を主題としており、圧倒的な武力を有する江戸幕府が朝廷を圧迫するという対立構造のもと、幕府側から論じられることが多かった。しかしそれでは天皇・朝廷の存続した理由、幕末政治史上・近代国家に天皇の存在が「浮上」していった事実などを説明できなかった。1970年代以降、天皇を幕藩体制に位置づける試みが始められた。対外的外交儀礼上の存在として、対内的な幕府の全国統治にかかわる存在として、天皇・朝廷は近世の国制上利用されていたことが明らかとなった。この研究潮流は幕藩制国家論、近世国家論へと発展していく。 この潮流のなかで、高埜利彦は朝廷内部の動向に注目し、江戸時代の天皇・朝廷が摂関(摂政・関白)と武家伝奏・議奏(二つ合わせて「両役」)という朝廷内部の組織を通した江戸幕府の統制下、元禄期と寛政期、自律的な二度の変容を経ながら、幕末政治史上に浮上していったとする見通しを提示した。また江戸幕府は近世の天皇・朝廷に宗教的機能(神仏への祈願)と国制的機能(徳川将軍家の荘厳化、官位叙任、改元)を果たすことを求め、近世国家のなかに位置づけたとした。高埜の見通しは近世における天皇・朝廷を議論する際の立脚点となり、朝廷そのものに対する研究も盛んとなっていく。朝幕関係史研究は単に朝廷と幕府との関係追究にとどまらない広がりを見せ、宗教史・身分論・ジェンダー史・都市史などの諸研究と融合、拡大していった。 しかし、高埜の時期区分はあくまでも朝廷・幕府関係における通時的な変容の理解であり、天皇・朝廷それ自体の内部構造についても、まだ十分に明らかにされているとは言い難い。現在は近世朝廷独自の機構・職制の解明を行うとともに、その運営実態からそれぞれの時期の政治構造を明らかにすることが求められている状況にある。 議論の前提として、観念的でない、実証的な天皇・朝廷の実態を提示すること、そしてその意味するところを提示すること、それが本研究の目標である。 高埜の措定した朝幕関係の基本構造理解に基づき、近世朝廷機構の発生・運営実態が明らかにされてきた。特に山口和夫・村和明の研究はそれまで分析対象とされてこなかった院参衆や皇嗣付などの役職・制度の成立・変遷を明らかにし、朝廷政治史における天皇や上皇の権力を追究したものとして高く評価できる。しかし注目されつつもなお実態解明の進んでいない存在は多い。まずは基礎研究として、様々な役職の補任表を作成・拡充する必要がある。具体的には、天皇の「近臣」とされることのある職事・御児・近習小番である。議奏や武家伝奏など朝廷の運営を担う重職へ昇進していく候補者であるが、不明な点が多い。就任者を確定させ、その性格を明らかにする。近世朝廷における多様な昇進コースの一端を明らかにすることで、律令官職からだけでは見えてこなかった人事の実態に迫ることが可能となる。各種補任表は今後の研究における土台となる。デジタル公開などによって膨大な公家日記・史料の閲覧・収集が可能となった現在、検討できる人物も日記数も飛躍的に増加した。写本ではなく自筆原本を利用することも可能になった。史料自体の性格を見極めつつ、精読したい。 役職・機構の分析は、静態的なものになりがちである。制度の成立期は勿論、その後の性質変化や改編など、その時々の人々による運用実態に注目する必要がある。近世朝廷の意思決定には摂関とともに武家伝奏や議奏などの役人たちが深く関わっていたが、朝廷のトップはあくまでも天皇である。天皇自身の意思・動向と、機構を通した朝廷の最終決定はどのような関係にあったのか。明らかにする必要がある。後水尾や霊元、光格や孝明といった個性の強い天皇がいた前期と後期と違い、近世中期の天皇は影が薄く、政治史・制度史上も安定期としてあまり注目されてこなかった。近世前期から後期へと画期的な変化を遂げていったとされる朝廷の、その画期性を、中期の政治情勢を追うことで明らかにする。 近世の朝廷は、摂関、武家伝奏・議奏、職事、女中・御児ら、江戸幕府に公認された役人によって運営されていた。彼らは朝廷の頂点に存在する天皇に奉仕することを第一義としており、天皇「近臣」といえる。しかしながら彼ら「近臣」は個々の経歴・人的関係性によってその性格を異にしており、天皇との距離も一定ではなかった。これまでの画一的な「近臣」イメージでは済まされない。近習であった、だけに限らず、生涯を通した経歴や出自、縁戚関係といった人脈をみることが重要である。 統一武家政権の支援によって規模の拡大した朝廷に合わせ、宝永大火を契機とした敷地拡張によって御所の空間も大きく変貌する。宝永度内裏は約80年間存在し、空間に見合った儀式・官職の「復古」を可能にした。元文~寛延期の制度改革「官位御定」は再編された朝儀に参与できるものを限定した。近世中期の天皇は、それまでの直系尊属の院(上皇・法皇)の指導を仰ぎながら手探りで朝廷運営を行う存在から、定められた規定に則って官位昇進その他日常政務を粛々と処理していく存在となっていく。制度化は同時に天皇の意思(「叡慮」)による例外を許容していた。例外を管理統制するはずであった院は次々と早世し、天皇は摂関・両役らとともに自ら決断を下していかなければならなくなる。 中期と比べ、後期は天皇の長期在位が目立つ。皇位継承者の不在や早期の生前譲位による御所群立を避けたい幕府の財政事情も大きいだろうが、天皇が院にならずとも朝廷運営の主導権を握れる状況となっていたことが大きいのではないだろうか。光格以降の天皇の「君主意識」形成については、中期における朝廷内での天皇の存在変化を前提に議論すべきである。 朝廷内での天皇「浮上」は、それをとりまく「近臣」たちの「浮上」をもたらす。「近臣」となる家筋の固定化によって、近習にすらなれない堂上家も多数存在した。狭義の「近臣」でない近習や近習にすらなれない者たちの不満・反発は、宝暦事件や幕末の列参事件等として表面化する。天皇の私的な「近臣」と公的な「近臣」が衝突したとき、天皇が最終的に支持したのは摂関―武家伝奏―議奏という既存の統制システムだった。, application/pdf}, school = {学習院大学, Gakushuin University}, title = {天皇「近臣」と近世の朝廷}, year = {}, yomi = {ハヤシ, ダイキ} }