@phdthesis{oai:glim-re.repo.nii.ac.jp:00004716, author = {高根, 広大 and Takane, Kodai}, month = {2020-02-05, 2021-12-09, 2021-12-09}, note = {本論文では、ルネサンス期の人文主義者たちが論じたレトリックについての様々な言説と、シェイクスピア演劇との関係を論じた。人文主義者たちの議論は、共和主義理論や暴君に対する抵抗論から、理想の宮廷人論や友情論、詩の擁護や女性の擁護に至るまで、多岐に渡る。シェイクスピアはこうした話題を演劇に取り入れることで、当時のイングランドの観客の関心を引き、楽しませたのである。  助言をすることは、人文主義のレトリックにおいて、中心的な概念である。たとえば、共和主義理論や暴君に対する抵抗論では、暴君とは臣民からの助言を無視し、代わりに追従を好む君主であると定義された。宮廷人論では、顧問官は助言によって君主を有徳に保ち、暴君にならないようにするよう期待された。宮廷人論における主従関係は、ギリシア・ローマ古典の友情論から発展したが、ルネサンス期の友情論、主従関係論のどちらにおいても、助言は友情を支えるものであり、追従は友情を腐敗させるものと考えられた。理想の宮廷人はうまく主君の関心を引くような助言をすると議論された一方で、理想の詩人は読者を楽しませ、かつ教えるものだと議論された。巧みに関心を引くような助言は、女々しいと批判されることもあったが、女性による助言は、女性の友情とともに、ルネサンス期の友情論から除外されたり、一方でまた、擁護されたりした。  これまでのシェイクピア研究では、シェイクスピア演劇に反映されている政治思想、友情論、ジェンダーの政治学などが個々に論じられてきた。これらの分野は助言という観点で密接に関連しているにも関わらず、それをシェイクスピア演劇で分析したものは、ほとんど見られない。したがって、これらを包括的にシェイクスピア演劇と関連づけることが、本論文の目的の一つであった。 本論文における目的のもう一つは、助言と、その対立概念である追従が、シェイクスピアの各ジャンルの劇作において、それぞれ機能していることを明らかにすることである。第一に、悲劇において、助言に見せかけた追従が悲劇の要因となる。第二に、ロマンス劇、あるいは悲喜劇において、宮廷人の助言が、君主の圧政への対処となり、悲劇的展開から、喜劇的展開を導く鍵となる。第三に、ロマンティック・コメディ、あるいは恋愛喜劇では、物語展開上、男装することになった女性たちにとって、助言が男装中ながら意中の相手からの好意を得る手段となる。三章構成の本論文では、これらの論点を各章に配置した。  第一章で論じた悲劇のうち、『ジュリアス・シーザー』では、暴君と追従に関する問題が、『コリオレイナス』では、民衆と追従に関する問題が描かれている。シーザーとコリオレイナスは共に暴君としてローマから排除されるが、その性質は異なっている。シーザーには追従への関与が疑われるが、コリオレイナスはむしろ、追従を拒否することによって、追従を厭わない者たちによって扇動された民衆から排除されるのである。君主と貴族、民衆が調和する混合政体の理想においては、暴君だけでなく、民衆もまた追従との関連が議論された。民衆は貴族の助言によって導かれる存在であったが、同時に容易に扇動されうる存在でもあった。『コリオレイナス』が描き出すのは、こうした背景である。追従を拒否する者の悲劇としては、『ジュリアス・シーザー』のブルータスは、コリオレイナスに近い。『ジュリアス・シーザー』では前半でシーザーが暗殺されてしまう一方で、悲劇の幕を閉じるのはブルータスの死である。 第一章で論じたもう一つの悲劇、『アテネのタイモン』では、追従を拒絶するブルータスやコリオレイナスとは違い、追従を受け入れることで破産してしまう、タイモンの悲劇が描かれる。タイモンに作品を献上する詩人は作中にこれを表現するが、皮肉にも詩人自身は追従者であり、タイモンが破産すると手のひらを返したように離れていくアテネの人々の一人である。ここには、プラトンが詩人は嘘つきであるとしたことを根拠に詩を批判する考えと、詩の擁護との双方が描かれている。この劇ではさらに、相手を誘惑しそそのかすという意味で「女性的」とされた雄弁術についての是非も描かれている。タイモンは、涙に象徴される女性的な共感を称え、言葉の倫理性においても、男性よりも女性を評価している。一方で、皮肉にも、「女性的」な雄弁術はタイモンに徳を教えることはなく、むしろ、タイモンの呪いの言葉が人々の心を動かし、涙を流させ、倫理を考えさせるのである。  第二章で『ペリクリーズ』や『冬物語』などのロマンス劇では、暴君が排除されることではなく、悲しみや嫉妬、不安、怒りなどによって一時的に暴君のようにふるまい、助言に耳を貸さなくなった君主が、臣下の説得術によって健全な身体を取り戻すことがテーマとなる。人文主義者の議論では、国家の腐敗は宮廷人が助言によって治療を施すべき病にたとえられたが、シェイクスピア演劇においては、国家の腐敗を象徴するのは、君主の精神的な病である。『ペリクリーズ』の冒頭、アンタイオカスから命を狙われたペリクリーズの不安は、忠臣ヘリケイナスの助言によって取り除かれ、のちに娘を失ったことに打ちひしがれるペリクリーズの心を癒すのは、マリーナの説得である。このような二人の役割は、材源となるジョン・ガワーの『恋する男の告解』から大きく変更された点である。  同じような変更は、ロバート・グリーンの『パンドスト王』を材源とする『冬物語』にも見られる。レオンティーズは激しい嫉妬と怒りで妻を投獄し、娘を捨て、王子を死に追い込むが、これによって、シチリア王家も断絶の危機を迎える。この危機を乗り越えるために活躍するのが、カミローとポーライナという二人の忠臣である。カミローは宮廷の顧問官として、『パンドスト王』のフラニオンから大きく書き換えられ、ポーライナという女性の宮廷人が新たに作られる。二人の懐柔的な助言と率直な助言は、人文主義のレトリックの両極を反映しているだけでなく、奇跡にたとえられる神秘的な性質を帯びる。また、ポーライナの存在は、『ペリクリーズ』のマリーナとともに、女性のレトリックへの擁護ともなっている。  第三章で論じた『ヴェローナの二紳士』や『十二夜』などのロマンティック・コメディでは、レトリックは男装する女性が恋を成就するための手段となっている。『ヴェローナの二紳士』において、男装したジュリアは、自分を捨てシルヴィアに求愛しようとするプローテュースの小姓となる。このとき、ジュリアは内心を隠しながら、主君の意に沿った献身的な助言や説得をすることで、プローテュースとの間に信頼のある主従関係を築く。一方で、シルヴィアはジュリアを裏切り自分に言い寄るプローテュースを追従者として、厳しく非難し忠告する。こうした二人の態度は、女性が助言を通して理想的な人間関係を築き上げることを示唆し、男性中心主義の古典の友情論を転覆させる。シルヴィアの恋人であるヴァレンタインとプローテュースとの友情は壊れかけるが、やがて女性同士の絆と貞淑さが、男性同士の絆を修復へと導く。  『十二夜』のヴァイオラもまた、男装してオーシーノに仕えることで信頼され、彼の代わりにオリヴィアへ求愛する使いを任される。ヴァイオラの歌や物語の特技は、「女性的」とされた宮廷人の説得術の特徴であり、オリヴィアへの使いとして適任ということである。オーシーノは終始オリヴィアへの愛を貫くかと思われたが、オリヴィアがヴァイオラの双子の兄と結ばれた直後、ヴァイオラへ求愛する。こうした急展開は一見して不自然ではあるが、実はヴァイオラが男装して仕える中で、オーシーノとの深い信頼関係と愛情を築き上げていると考えると、筋が通る。オーシーノは男性中心的な恋愛観を持っているが、男装を通して女性の美徳を示したヴァイオラを、そのオーシーノが愛し求愛することは、やはり男性中心主義的な友情論や恋愛観に対する脱構築につながっている。  本論文では、シェイクスピア演劇のうち、人文主義のレトリックとジャンル別の劇作術を論じるという目的のうえで、より関連性の高い作品を扱った。しかし、こうしたテーマの研究はシェイクスピアの他の作品でも、論じることができる対象であり、さらなる研究に発展するものと期待される。また、ジェンダーの政治学を論じることは、今日でもシェイクスピア研究で盛んな分野であるが、本論文で試みたように、ルネサンス期のレトリックに関する言説をその視野に入れることは有意義であろう。人文主義のレトリックに見られる追従や助言、女性的な説得という概念の重要性は、現代の観客には気づきにくくなっているかもしれないが、シェイクスピアと同時代の観客は敏感に反応したはずである。シェイクスピアの作品は、レトリックが教育の基礎であったルネサンス期に作られたものであり、そのレトリックに関する様々な議論を概観し、シェイクスピア研究に落としこんだことに、これまでの研究にはない、本論文の特徴と独自性がある。, application/pdf}, school = {学習院大学, Gakushuin University}, title = {Humanist Rhetoric in Shakespeare: Flattery, Advice, and Womanly Persuasion}, year = {}, yomi = {タカネ, コウダイ} }