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アイテム
明治期の報徳運動と町村自治 ――地方問題をめぐる官と民の競合――
http://hdl.handle.net/10959/00004707
http://hdl.handle.net/10959/000047077ecea4bf-b2de-41c6-89e3-f0d43fc4b305
名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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Item type | 学位論文 / Thesis or Dissertation(1) | |||||
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公開日 | 2020-02-05 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 明治期の報徳運動と町村自治 ――地方問題をめぐる官と民の競合―― | |||||
言語 | ja | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | メイジキ ノ ホウトク ウンドウ ト チョウソン ジチ チホウ モンダイ ヲ メグル カン ト ミン ノ キョウゴウ | |||||
言語 | ja-Kana | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_db06 | |||||
資源タイプ | doctoral thesis | |||||
アクセス権 | ||||||
アクセス権 | open access | |||||
アクセス権URI | http://purl.org/coar/access_right/c_abf2 | |||||
著者 |
播磨, 崇晃
× 播磨, 崇晃 |
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抄録 | ||||||
内容記述タイプ | Abstract | |||||
内容記述 | 本論文は、明治期の報徳運動を考察することで「地方の発見」ともいうべき動向を捉え、当時の町村自治が直面していた問題と対策について明らかにするものである。 そもそも二宮尊徳や報徳社は近世のなかに生まれたものである。そこで第一章において、まず近世村落共同体における百姓の生活やそれを支え律していた社会秩序を概観した。領主は常に明君とは限らず「仁政」は制度的に保障されたものではなかったし、財政難により御普請も抑制され、次第に村の自普請へと転嫁されていった。貧民救済も民間の相互扶助に委ねられ、とりわけ富者は率先してその役割を担うことが求められていた。施与を行わない富者は〈打ちこわし〉の格好の標的となり、強欲な者だとして公儀に咎められることもあった。その事例として『報徳記』に描かれた大磯川崎屋騒動の逸話に注目し、報徳思想の特質を明らかにした。尊徳の教えは、富者に対して〈打ちこわし〉を事前に回避するため積極的に施与(推譲)すべきことを説くものであった。そして、このような思想に基づく報徳社が遠州の村々で成立した背景として、備荒貯蓄や一般行政などが当地の富者(村役人層)に委ねられていたこと、水害や灌漑用溜池のために重い負担が強いられていたことを確認した。続いて、明治期に入り私的所有権が認められたところで、富者に推譲を求める報徳思想はどう解釈されるのかについて、岡田良一郎による大磯川崎屋騒動の解釈をとりあげ、彼が起草した、全国規模で報徳社ネットワーク(国立報徳社-州立報徳社-町村立報徳社)を形成するという「大日本報徳社規則草案」の意図を明らかにした。そこでは、富者の推譲を獲得すべく皇族を国立報徳社の社長に招いて権威づけること、また静岡県を悩ませていた土木費負担問題の解決策として、報徳社ネットワークのなかで資金を融通し合うことが構想されていた。 第二章では、報徳社やその思想が明治期においてどのような経緯と背景から再評価されるに至ったのか考察した。まず、明治二〇年代半ばに平田東助らによって報徳社は信用組合のごとき結社として注目されたが、①富者の「慈恵金」に依存している点、②その社資が本来町村財政で賄われるような道路橋梁修築費や貧民救助など「公共の目的」に用いられている点が批判されていた。そして、ちょうど尊徳没後五〇年を迎える頃にも再び注目されることになった。その経緯を時系列的にたどったうえで、かつて批判されていた①と②が、より積極的に肯定的に評価されるようになっていたことを指摘した。こうした変化の背景には「社会党」台頭への恐怖と、それに対処すべく打ち出されていた社会政策の思想(社会改良主義)があった。いわば、近世において〈打ちこわし〉の回避として説かれた報徳思想は、近代において「社会党」台頭の回避を説く社会改良主義思想として解釈され再び評価されるようになったのである。 また、第二章では〈付論〉として、金森通倫の勤倹貯蓄奨励運動をとりあげた。大蔵省と逓信省が郵便切手貯金制度を導入し、明治三四年には二宮尊徳がその台紙の表紙絵に採用されていた。この頃、全国各地を巡って勤倹貯蓄を説いていた金森の活動に注目し、その運動の経緯と背景をたどった。 第三章では、社会改良主義の立場から報徳思想に注目し、二宮尊徳翁五〇年紀念会の発起人にも名を連ねていた桑田熊蔵をとりあげ、まず彼が説いた社会政策の三方針「国家的方針」「慈恵的方針」「個人的方針」を確認した。後二者に報徳思想との合致をみた彼は、「今」を産業構造の変化の過渡期にあると認識しており、「貴族」=大名華族が旧領地に帰住し、「地方豪族」=地方の地主が農業に専念して公共事業に尽力することが「社会問題」の解決に寄与すると述べていた。翻っていえば、それは「社会問題」がその初期段階において地方問題(農業・農村からのヒトとカネの流出)として浮上してくるということを意味していた。また、社会主義をもたらす産業構造の変化は、社会移動の観点からいうと職業選択の問題であり、ひいては教育問題としても認識されていた。 第四章では、明治三七年の国定修身教科書における二宮金次郎登場の狙いについて、当時文部省が実業教育奨励に注力し、尊徳を「実業的方面の偉人」として捉えていたということをふまえて検討した。まず岡田良平の見解をとりあげた。彼にとって報徳思想が教育上普及するということは、官吏や月給取りではなく実業に従事する者を輩出するということであった。その背景には高等遊民対策と植民地開拓という時局の要請があり、E.ドモランの著書『アングロ・サクソンの優位性は何に起因するか』(一八九七年)への注目があった。『ドモラン氏安具魯遡孫論』(明治三四年)を著した東京専門学校の高田早苗や浮田和民は、帝国主義時代の到来を認識し、軍事力ではなく実業による帝国主義を提唱していた。尊徳の自家再興や桜町仕法にみられるような他者に依頼しない自立した姿が、民間の実業家による植民地開拓の「手本」「模範」として称揚されるようになったのである。さらに、慶應義塾によって邦訳『独立自営 大国民』(明治三五年)が出版され、その論旨は「修身要領」に合致するものとされた。ドモランの「独立自営」に重ねられた福澤諭吉の「独立自尊」は、そのまま尊徳の事績にも重ねられていた。良平のほかに井上友一や児玉源太郎など、官界にもドモランの著書に対する評価は広がっていた。 明治三〇年代、多くの青年が官吏や月給取りを目指し上京していたものの苦学が報われ成功する者は限られており、閉塞感が漂うようになっていた。とりわけ官途を目指して大学に殺到する有様を政府は傍観していたというわけではなく、明治三二年の実業学校令と同三六年の専門学校令によって、これまで中学校を目指していた者を実業学校へ、高等学校を目指していた者を専門学校へ誘導することにした。良平は井上とドイツの実業学校を視察しており、実業教育については内務省も関心を寄せていた。町村制下の村長は当地の有力な資産家が想定されており、農業を嫌い都会へと人材が流出することは名望家自治をゆるがす問題だった。植民地開拓が求められる一方で、国内においては地方も自治の担い手の継承という課題を抱えていたのである。そこで農業学校の教育方針が転換され、卒業後は帰郷して町村長や県会議員など地方の担い手となるような人材を養成することになった。井上は、人望に頼る名望家自治では安定的な継承が困難であるうえに、来たるは「技能主義」の時代だと認識していた。行政や社会の複雑化にともなって知識や技術のある教育を受けた人物を必要とするようになる。彼はそうした人材を輩出する教育機関として実業学校や専門学校(私立大学)に期待していたのである。 第五章では、遠江国報徳社開催の二宮尊徳先生五〇年祭に出席していた鈴木藤三郎の発言をとりあげ、その真意について考察を進めながら、改めて柳田国男の報徳社批判を捉え直し、報徳社の事業とは何だったのかという基本問題について再検討した。鈴木は報徳社の「先輩諸氏」がいうような消極的分度説を難じ、積極的分度説を主張していた。分度外の財を事業に投じて拡大再生産をしていくことが社会一般の幸福になるという鈴木に対し、報徳社側は分度外を災害救助などに推譲することも必要であるとした。こうした論点は、良一郎との論争にみられる柳田の報徳社批判にも通じていた。生産活動への積極的な貸付を求める柳田に対し、良一郎は、報徳社は借金目的で入社するものではないと述べていた。個人では為し得ないような「公益」の実現が強調され、報徳社の定款における社資の用途をみれば、つとに平田らが指摘していた、本来町村財政で行うような道路・橋梁の修繕や貧民救助などといった「公共の目的」のための貸付や支出であった。 第六章では、明治期における〈町村-部落〉構造と報徳社の事業について考察した。中央に依存しない理想的な町村自治のあり方としても「独立自営」が掲げられ、納税を徹底しつつ租税に加えて積極的な寄付が奨励されていた。さらに注目すべきは部落協議費の存在である。明治の大合併が断行されても行政村内の旧村の結合は残り続け、部落ごとに費用(部落協議費)を徴収し運営していく独自の財政をもっていた。報徳社のいう「公益的事業」が道路・橋梁・用悪水路・堤防にかかわる事業を意味していたということをふまえ、事例をあげて論じた。多くの報徳社は部落単位に結社されており、しかもそれは自覚的であった。長短比較のうえ、町村合併などの影響を被りかねない行政村単位の町村式報徳社よりも部落式報徳社がよいとされていたのである。また、報徳社は一村内だけで完結するものではなく、村外の本社(遠江国報徳社)との間に資金貸借関係があった。行政村が実現できず、また多額の資金が必要となるような、部落財政で賄えないような規模の事業であっても、部落式報徳社では、〈町村-部落〉を越えた遠江国報徳社との間の〈本社-支社〉関係を通して十分為し得たのである。 以上のように、地方からのヒト・カネの流出がもたらす町村自治の担い手不足や社会主義の発生をいかにして回避するかというところで二宮尊徳の事績や報徳社が再評価されていた。また、この頃の報徳社は、行政村というよりも部落単位に根を張っており、〈町村-部落〉を越えた〈本社-支社〉の独自のネットワークを形成し、眼前の町村財政が抱える問題に対処していたのであった。 |
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フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
学位名 | ||||||
言語 | ja | |||||
学位名 | 博士(政治学) | |||||
学位名(英) | ||||||
言語 | en | |||||
学位名 | Doctor of Philosophy in Political Studies | |||||
学位授与機関 | ||||||
学位授与機関識別子Scheme | kakenhi | |||||
学位授与機関識別子 | 32606 | |||||
言語 | ja | |||||
学位授与機関名 | 学習院大学 | |||||
学位授与機関(英) | ||||||
学位授与機関識別子Scheme | kakenhi | |||||
学位授与機関識別子 | 32606 | |||||
言語 | en | |||||
学位授与機関名 | Gakushuin University | |||||
学位授与年月日 | ||||||
学位授与年月日 | 2019-10-01 | |||||
学位授与番号 | ||||||
学位授与番号 | 32606甲第286号 |