@phdthesis{oai:glim-re.repo.nii.ac.jp:00003892, author = {多和田, 真太良 and Tawata, Shintaryo}, month = {2017-05-18, 2021-12-09, 2021-12-09}, note = {「ハラキリ・フジヤマ・ゲイシャ」はどこから生まれたのか。武士は海外で切腹したのだろうか。富士山はどこに描かれたのだろうか。芸者はそれほど海外に進出していたのだろうか。総てを海外の劇場の舞台の上で演じ印象付けたのは、日本人自身である。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、欧米では「日本」を題材にした数多くの舞台作品が製作された。徳川幕府の鎖国が解消されると、日本の絵画や調度品がヨーロッパのあらゆるジャンルの文化を刺激し、ジャポニズムが生まれた。そもそも19世紀後半、西洋に模倣された日本人は誰だったのか。初期ジャポニズム演劇の特徴は派手な衣裳、アクロバティックな動き、日本の歌舞音曲をイメージした音楽である。幕府末期に世界中を視察して回った数々の遣欧、遣米使節団は、当時の新聞にも大きく取り上げられた。しかし彼らのいでたちは地味で、顔は浅黒い。このイメージが反映されているとは考えにくい。海外への渡航が許されるようになると多くの軽業師や手品師など、芸人一座が瞬く間に世界進出を果たした。彼らの巧妙な技芸は欧米の人々を魅了し、まだ新しい娯楽だったサーカスに強い影響を与えた。突如として街中に現れ、大衆の生活文化に浸透した「日本」や「日本人」の姿は、やがて演劇や音楽として「模倣」され、数多くのジャポニズム演劇を生み出した。直接的な利害関係のない、「どこにもない国」として描かれた日本は、次第に風刺劇のための架空の世界として利用されるようになる。1885年3月、イギリスのサヴォイ・オペラでは、喜歌劇『ミカド』が大ヒットとなる。中世の封建社会の中で描かれていたのは、1月にナイツブリッジに開場した日本人村で見かける日本人たちを彷彿とさせる衣裳で歌い踊る「日本」の人々だった。この舞台の成功は、観客が「日本らしさ」を享受できたことだと言われている。しかし外見的特徴だけを忠実に再現して、突飛な物語を展開しても観客は同調しない。作者ギルバートは、あえて「架空の国」に仕立て上げ、物語のリアリティと劇の虚構性との距離感を精密に計算していた。じつはこれまで多くのジャポニズム演劇は、その奇抜で日本人には受け入れがたい「誤解」と「反発」から存在自体を顧みられてこなかった。それは世界的に名声を博しているオペラ『蝶々夫人』も例外ではないが、これらの作品に系譜があることは知られていない。日清、日露戦争を経てジャポニズム演劇は「喜劇」から「悲劇」へと転換する。決して「どこにもない国」ではなく、着実に欧米社会に脅威となりつつあった日本は、欧米の帝国主義的な世界観の中では、支配される側でなくてはならなかったのだ。『ミカド』と『蝶々夫人』の間には『ゲイシャ』という中間的な存在があり、「日本」のイメージの変遷を語るには欠かせない。支配する男性=西洋と、支配される女性=東洋の構図はロティの『お菊さん』から『ゲイシャ』、『蝶々夫人』へと続く潮流となるが、一方でジャポニズムへのあこがれは「日本人の身体」「美意識」といった領域へと深化していく。川上音二郎の「ハラキリ」や、貞奴の「狂気」や「死」の描写は、日本人特有の身体性として模倣され、表象されていく。 また一方で、能の流入は、テキスト重視の西洋演劇が失った始原的なものを想起させ、イエイツをはじめとする能の形式の模倣が行われるようになる。演劇が「模倣する」芸術である以上、その対象は共有できるイメージを持った存在でなくてはならない。「日本らしさ」を表現するために取り入れられたものとして、視覚的要素(舞台装置・衣裳)に加えて、聴覚的要素(セリフ・音楽)に注目したい。舞台上に登場する「日本語」は単なるでたらめではなく、文脈に沿ったものや、音声としてそれ自体が「日本語」の表象になっているものもある。日本語の使用不使用によって舞台の日本に対する印象も変わるのである。母音を多用し、長音や促音をほとんど用いない単語はより日本的なイメージを醸し出す効果を生んでいることが分かる。その一方で、日本語を観客が聞いたことがない場合や、作者が日本語に習熟し思い入れが強い場合のいずれも、日本語は使用されていない。『蝶々夫人』を生み出したアメリカでも『ミカド』をはじめ、ジャポニズム演劇は人気を博した。しかし大国としても多民族国家としても成長しつつあったアメリカにとって、人種差別と演劇は切り離せない。白人が「黒人」を演じるミンストレル・ショー、白人が黄色人種を演じるイエローフェイスは、アメリカ固有の演劇と言っても過言ではない。特にイエローフェイスは、中国人移民の台頭著しい西海岸側での黄禍論を象徴するフリスコ・チャイニーズ・メロドラマというジャンルを生み出した。「陽気で知恵が足りない、幸せそうな」ミンストレル・ショーのブラックフェイスとは対照的に、「狡猾で性悪な」イエローフェイスがステレオタイプ化する中で、『ミカド』の果たした「日本」のイメージの区別化は大きかった。川上音二郎一座が経済的には苦境に立たされながらも、黄禍論的排他姿勢をそれほど受けずにブロード・ウェイで受け入れられたのは、偶然ではない。 また、初期のジャポニズム演劇として名を残すフランスの作品『麗しのサイナラ』も、ブロードウェイで少なくとも2回はリニューアルされ上演された。「サイナラ」3作を比較しながら、この作品の魅力に迫るとともに、デイヴィッド・ベラスコが小説『蝶々夫人』の劇化には、当時のブロードウェイにおけるジャポニズム小説のセンチメンタリズムや、ジャポニズム演劇のリバイバルが複数行われていたことなど、ジャポニズム演劇に注目することで、時代の空気を読み解くことが出来る。ここに満を持した形で登場した川上一座の歴史的なタイミングの良さが、その後の20世紀演劇全体に強く影響を及ぼすこととなる。20世紀の幕が開け、新たな芸術への模索が始まった時期に登場したのが川上音二郎と貞奴の一座である。彼らの表現は、西洋にとっての他者として「観られる」ことを常に意識したものであった。それはかつて開国直後に「日本」のイメージを植え付けていった軽業芸人一座や日本人村の人々と同じまなざしである。常に彼らにはテキストを身体の動きで表現しようとする原理があり、それはテキストからの脱却を図ろうともがいていた20世紀の前衛芸術家たちに強い衝撃を与えることとなった。常に躍動的な変化を続けてきたジャポニズム演劇の変遷を追うことで、表象することの原理を探ることが出来るのである, application/pdf}, school = {学習院大学, Gakushuin University}, title = {19世紀西洋演劇におけるジャポニズム : 「日本」の表象の変遷}, year = {}, yomi = {タワタ, シンタリョウ} }