@phdthesis{oai:glim-re.repo.nii.ac.jp:00003888, author = {三代川, 邦夫 and Miyokawa, Kunio}, month = {2016-06-28, 2021-12-09}, note = {I.研究の目的本稿の目的は,「危険の引受け」と称されてきた問題につき,問題状況を整理したうえで,その解決を図ることである。II.従来の議論の問題点(序章,第一章)従来,「危険の引受け」とは,「法益侵害結果に対する被害者の同意はないが,法益侵害の危険を含む行為の遂行には承諾している」という事案類型であると解されてきた。しかし,その定義の中に,あまりにも雑多な事例類型が放り込まれてきた。被害者が危険な行為に承諾している場合といっても,そこで可罰性を阻却すべきであるとする直観を支える理由は,多様である。たとえば,被害者が治療行為に承諾した場合において,可罰性阻却をするに際し重要なのは,被害者が承諾したことそれ自体というよりも,手術に成功するメリットと失敗するデメリットとを比較し,前者が優越すると被害者が考えたという点にあり,その基礎には優越的利益原理がある。あるいは,企業における冒険的取引が,一定範囲で背任罪の成立を否定すべきだと考えられるのは,背任罪というものが全体財産に対する罪であることも相俟って,取引全体をみて本人に利益をもたらすか否かが構成要件的に重視されているからである。このように,そこで可罰性阻却すべきであると考えられる実体が,優越的利益の実現や各則の構成要件に基づく場合も散見され,このような事案類型を「危険の引受け」として括りだす必然性には乏しい。既存の法理で捕捉すべき事案は,既存の法理によって解決すべきなのである。III.個人(被害者)の意思の原理的考察(第二章~第四章)上にみたように,「危険の引受け」は,「被害者の同意が認められない類型」であることが前提とされている。しかし,そもそも被害者の同意がなぜ可罰性阻却効果を有するのか,被害者の意思というものが,なぜ可罰性阻却へと方向づける要素たりうるのか。この点を考える必要があるだろう。そういった原理的な考察を抜きにして,小手先の議論を繰り広げても,説得的な議論にはならない。個人が自己の法益を処分する際に,国家がそれに介入する(関与者の行為を違法評価する)ことが許されないのは,個人の自律を害するからである。国家とは,諸個人の自律を保護しつつ,多種多様な個人が共存できるようにするために,存在する。したがって,論理的に,国家が個人の自律を害することは許されない。では,いかなる場合に個人の自律が害されるのか。それは,国家が個人を「個人として尊重」(憲法13条前段)しない場合であろう。個人が,自己の信奉する宗教の教義に基づき,殺人を繰り返す場合に,それを阻止することは,個人の自律を害するとはいわない。しかし,個人が何らかの理由により自己の法益を処分しようとする場合に,なにも第三者の利益を害していないにもかかわらず,「君の考えは間違っている」「君の考えは異常だ」などといって,その法益処分を制約することは,当該個人を「個人として尊重」しているとはいえない。ゆえに,個人の法益処分を,その法益処分の動機の不当性や異常性に着目して制約することは,許されないのである。被害者の同意の可罰性阻却の根拠は,この点にある(第二章)。以上は,被害者が法益を毀滅させることに同意した場合の話であるが,法益を毀滅の危険にさらすことに同意した場合もまた,同様である。法益を毀滅させることに可罰性阻却効果が認められるのであれば,毀滅の危険にさらすことにもまた,可罰性阻却効果は認められるべきだからである。危険の引受けにおいて可罰性阻却を認めるべき根拠として,従来の通説的見解が主張してきたものも,実質的には以上のような発想に基づいている(第四章)IV.一般的な行動の自由(第五章)しかしながら,危険の引受け,つまり自己の法益を危険にさらす自由の根拠は,以上のようなもの(自律基底的自由と呼ぶ)に尽きているのだろうか。自律基底的自由と呼ぶためには,被害者が法益に対する危険性を正確に認識し,承諾していることが必要となる。たしかに,そういう場合も存在しているであろう。しかし,そこまで正確な認識なく危険にさらす場合というのも,往々にして存在しているはずである。いわば,「多少注意すれば気づけたが,漫然と法益を危険にさらした」という場合も,存在している。むしろ,その方が実態としては多いかもしれない。そのような場合は,可罰性阻却をしないということでよいのだろうか。たしかに,そういった行動は,自律に根差したものと評価することはできない。しかし,そういった行動であっても,それを許容した方が,よいのではないだろうか。それに第三者が手を貸すことを,適法化して認めるべきではないだろうか。危険性を正確に認識していないことなど,日常生活においては多々存在しており,逐一そのような行為への関与を否定するよりも,様々な行動を被害者に保障し,かつ第三者の手を借りることも適法化して保障する方が,被害者の自律的な生の展開という見地に鑑みれば,むしろ望ましいのではないだろうか。危険なスポーツ行為,危険な飲食物を摂取する行為など,危険性を正確に認識せず「まあ大丈夫だろう」と楽観視している場合も少なくはないはずである。それでも,そういった行為への手助けを保障する方が,個人の自律的生にとっては,有意義であると思われる。このように考えると,自律基底的自由のみならず,このような一般的な行動の自由の保障という見地からも,自己の法益を危険にさらす自由を基礎づけることはできるはずである。このような見地から,一般的行動の自由に基づき関与者を違法性阻却することも,認められるべきであると思われ,その具体的内容・要件を明らかにした。V.結論本稿において得られた結論は,以下の通りである。まず,既存の可罰性阻却事由が妥当する事案については,「危険の引受け」として定式化する必要はない。次に,被害者の同意の可罰性阻却根拠は,それを可罰性阻却しないことが個人の自律を侵害することになるという点に求められ,この可罰性阻却は,被害者が自己の法益の危険性を正確に認識したうえで危険にさらす場合にも妥当する(自律基底的自由に基づく危険の引受け)。しかし,この自律基底的自由に基づく危険の引受けのみが,自己の法益を危険にさらす場合の可罰性阻却根拠を担うわけではないと思われる。このような自律に根差した法益危殆化以外にも,被害者に一般的な行動の自由を保障するという見地から,自己の法益を危険にさらす行為の可罰性阻却を認めるべきではないかと思われる。, application/pdf}, school = {学習院大学, Gakushuin University}, title = {被害者の危険の引受けと個人の自由}, year = {}, yomi = {ミヨカワ, クニオ} }