@phdthesis{oai:glim-re.repo.nii.ac.jp:00003851, author = {竹田, 志保 and Takeda, Shiho}, month = {2014-05-07, 2021-12-09, 2021-12-09}, note = {本論は、作家吉屋信子の大正期から戦中期の長編連載小説を読むことで、その新たな可能性について考察するものである。さらに、小説に描かれたモチーフや問題意識を、可能な限り同時代の言説のなかに位置づけながら、読み解くことを試みている。  論は大きく二部によって構成される。第一部では、〈少女小説〉によってデビューを果たした大正期から、流行作家への契機となった一九一九〔大正九〕年の新聞懸賞小説当選までの時期を検討する。第二部では、流行作家として成功を遂げた頃の、社会現象的な人気を博したいくつかの小説を取り上げる。  第一章では、『花物語』について考察する。〈少女小説〉の代表作とも目される本作は、吉屋信子研究においても、最も取り上げられることの多い小説である。このとき培われた方法は、以降の吉屋の小説にもある程度引き継がれていくものであり、彼女の作家的出発点として欠かすことはできないものである。本章では、まず『花物語』の特徴的文体や、〈共感〉の構図、〈感傷性〉などといった〈少女小説〉的特徴を抽出しながら、この時期成立した〈少女〉という存在について考察する。ま連載半ばから変質していく『花物語』のなかから、当時の〈少女〉に求められていた規範の変化を捉えている。  第二章では、『大阪朝日新聞』の懸賞小説として応募された「地の果まで」について考察している。これまで本作は類型的な大正期特有のモード、特に〈大正教養主義〉の枠組みに捕らわれた小説と考えられてきた。しかし本作にはそうした同時代モードに回収し得ない問題が多く書き込まれている。登場する二人の姉弟には、それぞれのジェンダー/セクシュアリティをめぐってさまざまな齟齬が生じている。こうした問題は、最終的に〈教養主義〉的な〈人格〉の向上によって解決されたかのようであるが、それまでの葛藤から完全に切断された空疎な大団円は、むしろ〈教養主義〉の欺瞞を明らかにして、それを相対化するものとなっているだろう。  第三章では、前述の「地の果まで」の直後に書かれた「屋根裏の二処女」を取り上げている。本作は、吉屋が正面から〈同性愛〉を描いた革新的テクストとして評価されてきたものである。しかし、本論では、結末に描かれる〈自我〉の称揚のあり方に疑問を呈している。また、そこで同時に行われている序列化や排除も見逃すことはできない。吉屋本人の実生活での実践とは別に、小説で描かれた〈同性愛〉の問題点を抽出する。  第二部、第四章では「女の友情」を読んでいく。本作は『婦人倶楽部』誌上で大きな人気を博して、昭和期からの吉屋の快進撃の端緒となったものである。本作には「女には真の友情がない」という通説に対して、「女の友情」の強さを提示することが期待され、また今日までそう評価されてきたといえるだろう。しかし、小説自体の展開や結末は、決してポジティブな解答を示し得てはおらず、読者欄には若干の戸惑いも伺える。このズレは、主人公・由紀子の〈友情〉が〈同性愛〉に限りなく接近したものとしてあることによって生じている。特に、由紀子の〈同性愛〉が〈男性性〉を指向するものであることは重要である。小説内に描かれる〈異性愛〉の強力な制度と、そこにいかに抵抗することが可能/不可能であるかを考察している。  第五章では、「良人の貞操」を考察する。吉屋信子の戦前最大のヒット作である「良人の貞操」は、連載時から大きな反響を呼び、映画や舞台などにおいてもブームを巻き起こした小説である。だが、この小説は、広く流通するほどに、小説テクスト自体を離れて読まれてしまっていたのではないだろうか。広告等では、登場人物について、「良妻」や「未亡人」といった類型的なカテゴライズがなされているが、小説テクストには、彼女たちが他者から期待される像に対してどのように応え、あるいは抵抗していたかという葛藤が描かれている。特に、主人公・邦子が〈母〉となっていく結末には、当時の〈良妻賢母〉思想、特に〈母性〉イデオロギーの影響が顕著である。邦子がそれを過剰に信じ、自己同一化していく過程のおぞましさには、当時の女性に与えられていた規範への亀裂となりうるものが隠されているのではないだろうか。  第六章では、小説テクストを離れて、周辺の新聞・雑誌記事から作家〈吉屋信子〉の像を追いかけてみることを試みている。これらの記事には、嫉妬と揶揄の入り交じった苛烈な視線があり、当時の吉屋信子が置かれていた場所の厳しさがうかがえる。しかし、そうした侮蔑的な評価のなかにこそ、吉屋信子の怪物的な可能性が眠っているのではないだろうか。これまでの研究における〈吉屋信子〉像では、触れられることの少なかった側面を抽出することを目指している。  第七章では、大衆小説家として成功した後に書かれた〈少女小説〉、具体的には「あの道この道」を取り上げている。これまで、吉屋の〈少女小説〉は、制度からの逸脱的側面や、〈少女〉主体の抵抗的意識の側面から論じられることが多かった。しかし、この時期の〈少女小説〉には、それらとはまた異なるかたちで〈少女〉の規範が示されていたように思われる。子供の取り替えに始まるこの物語は、〈生まれ〉と〈育ち〉の対立を借りて〈少女〉の〈幸福〉がどのように決定されるのかを描いていくが、最後にはいずれの議論もなし崩しにするような決定的な限界に達している。  第八章では、翻案小説「母の曲」について考察する。オリーブ・ヒギンス・プローティの「ステラ・ダラス」を原作として翻案された本作は、吉屋信子研究史上では、ほとんど言及されることのなかった小説であるが、〈母もの〉と呼ばれる映画ジャンルの誕生において、重要な原型を提供したものである。ここでは〝無教養な母が、娘を強く思いながらも、その将来の幸福のために敢えて別れる〟という母の自己犠牲が描かれており、娘はより望ましい〈代母〉へ委譲される。しかし、この吉屋版のテクストでは、娘の能力が高く設定されていることが特徴である。この娘の設定には、〈母〉の価値の無根拠性を暴露し、家族制度への疑義に至る危険性すら秘められているが、この物語の背後に機能する〈家族国家観〉がそれを覆い隠していく。また、吉屋版翻案に基づく映画版も、また別の問題を提示している。原作、翻案、映画に描かれる母と娘の関係について、比較考察を行っていく。  第九章では、日中戦争期に発表された小説「女の教室」について分析している。本作は、吉屋の戦争協力問題を考えるためには、避けられない小説である。戦地への取材、報告を経て書かれたものであるが、七人の女性医師たちを主人公として、彼女たちの怒濤の人生を描く本作は、報告文と直接の対応関係をもつわけではない。しかしそこには、明確に〈戦争〉が書きこまれ、さらにその主張には「東亜新秩序」の〈聖戦〉イデオロギーが顕著である。しかし、本作における〈戦争〉肯定とは、単に時局の反映として描かれているわけではない。〈戦争〉には、それまで抑圧されてきたものたちの願いの実現が託されている。吉屋信子がこれまで抱えてきた困難が、皮肉なかたちで解消されようとすることを指摘して、本論のまとめとしている。  本論では、大衆向け長編小説の分析を中心としながら、吉屋信子という作家の、新たな像を提示することを目指している。しかし、単純な称揚を示すだけでは不充分であるだろう。吉屋信子が抱え込まざるを得なかった、さまざまな限界を明らかにしつつ、その上でなお吉屋信子を読み直すことの意義を提示したい。  吉屋は、よく時代に迎合した、それゆえに流行作家であった人物であるかもしれない。現在の感覚からは、逆に古めかしく、普遍性を持たない小説と見なされるかもしれないし、時代性を強く反映したがゆえに、その時代的限界も露わであるだろう。しかし改めて読んでみれば、彼女の小説には、奇妙なところが多くある。これは単なる失敗や短絡、技術の不足としては片付けられないものである。そこには〈無意識〉にある不満や、怒り、恐怖、解決できないさまざまな欲望が徴候としてあらわれているのではないだろうか。当時の読者には、そして吉屋本人にも認識されなかったであろう綻びを拾い上げて、その破壊力を目覚めさせることが、本論の目的である。, application/pdf}, school = {学習院大学, Gakushuin University}, title = {吉屋信子研究}, year = {}, yomi = {タケダ, シホ} }