@phdthesis{oai:glim-re.repo.nii.ac.jp:00003827, author = {笹部, 真理子 and Sasabe, Mariko}, month = {2014-01-28, 2021-12-09}, note = {本研究は、自民党の最大の組織的特徴を、(1)党中央レベルにおいて他党と「カルテル」を組み、(2)党中央が地方組織の自律性を尊重しながら地方組織と密接な関係を築いている、と位置づけ、このような特徴を有する組織構造がどのように形成されたのか明らかにすることを通じて、「自民党型政治」の形成・確立・展開の過程を論ずるものである。 第1章ではまず、欧米の政党組織論の系譜を辿り、大衆政党モデルの強い影響下で、「指導者―支持者」の枠組に捉われ過ぎたことによって、1970年代以降に各国の政党で生じた組織の変化を的確に説明できず、政党は「衰退」していると考えられるに至ったことを見ていった。続いて、欧米の政党組織論の新潮流を切り拓いたカッツとメイヤーの議論を概観し、彼らが政党組織を複数の「要素」に分け、各「要素」が持つリソースの重要性の変化から、「要素」間の関係性の変容を説明するという手法を取ることによって、政党は「衰退」しているのではなく、組織を「変容」させることで、環境の変化に「適応」したという見方を提示することができたのを確認した。そのうえで、政党組織内に存在する多様な「要素」間の関係性に注目するカッツとメイヤーの分析手法は、自民党のように、「指導者―支持者」の階統的な組織構造を持たない政党を分析するうえで有効であることを述べた。そして、この分析視角に基づくことによって、分権的な組織構造を持つ自民党が、如何に中央・地方を通じて、これまで統一性を保ってきたのかを説明することが可能となることを論じた。 第2章では、結党以来の自民党内における組織化方針の展開過程を辿りながら、1970年代前半において大きな転換が生じていることを明らかにした。自民党が結成された1955年において、地方には中央政治から自律的に形成された伝統的な政治秩序が存在していた。こうした状況を解消し、地域社会での支持を強固なものとするため、第1期(1955年~1972年)の自民党は、大衆政党をモデルとして、中央では派閥の解消、地方では後援会の解消と地方組織の拡充が目指された。しかし、こうした動きは、ヨーロッパの保守政党とは異なり、派閥や後援会の存在によって阻害され、十分に展開するには至らなかった。 第2期(1972年~1993年)に入ると、自民党は、価値観の多様化や無党派層の増加を背景にして、国政選挙での得票数の低下に直面する。また、所得水準の上昇によって、経済発展を最優先すべきだとするコンセンサスが崩れ始めたことは、社会福祉や環境問題に対する国 民の要望を噴出させた。このような状況に対応するため、自民党の組織化の方針は、従来の大衆政党モデルを意識した硬直的な組織から脱し、潜在的な支持層と緩やかな関係を構築する方向へと転換した。そして、具体的な方法として、社会の要望をきめ細かく吸収できるような回路の形成が目指されるようになった。 第3章以降では、こうした組織化方針の変化が、実際に自民党組織にどのような「変容」をもたらすことになったのか論じた。まず、第3章では、自民党の中央組織における変化について分析を行った。その結果、第1期から第2期にかけて、次のような変化が生じていることが明らかになった。 まず、党本部の組織構成について見れば、第1期においては、全国組織委員会や人事局など地方組織の統制強化と派閥解消に関係する部局が重点的に拡充されていたのに対して、第2期になると、社会の要望にきめ細かく対応する政調会の調査会や小委員会などが大幅に拡充されるようになった。 こうした組織の「変容」に見られるように、きめ細かな民意の吸収に重点が置かれたことは、社会的諸要求を党内の政治過程に流入させることになる。これに対して、何らかの制御・統合メカニズムが必要となる。そのメカニズムとして機能したのが派閥と役職人事の制度化である。派閥については、前述したように、党内の秩序維持に果たす役割が積極的に肯定されるようになったことを背景にして、派閥間の調整を目的とした役職や機関が増設された。また、第1期において必ずしも優先されるべき人事基準ではなかった年功序列や派閥均衡が、第2期に入って厳格に適用されるようになることで、国会議員の党や派閥への依存が強まった。その結果、人事を通じて、政策面では進展した多元性が統合されるようになったのである。 このように、全体としては年功序列・派閥均衡型人事が定着していくなかでも、前述した組織化方針の変化を背景として、実際には、柔軟に人事慣行の変更が行われていた。この点を、第4章では、政調会と国対委員会の人事を中心に検討を加えた。第1期には、政調副会長経験者の優遇など、政策的統合に重点が置かれていた人事(具体的には、政調副会長経験者の優遇)がなされていたのが、第2期には政調会部会長の人事が重視されるようになる。この変化は、多様化する社会の要望に対応する場として政調会部会の役割が重視されるようになったことを示唆している。また、第2期に、財政赤字の拡大や与野党伯仲状況の出現によって他党との交渉の重要性が高まったことを背景として、国対ポストの経験者も優遇されることになった。 第3・4章で明らかにした党中央での組織変容は、1970年代に支持低下に直面した自民党が、一方では、他党との協調を進めながら、他方で、支持基盤を拡大するために、民意をきめ細かく吸収し、それに対応できる態勢を整えたことを示している。 それでは、党中央と地方組織との関係はどのように変化したのか。第5章で論じたように、第2期以降、党中央は、地方組織についても、大衆政党モデルを放棄し、政党色を薄めた緩やかな組織へと変更することを通じて、非政治的な地域社会の要望を効率よく吸収しようとした。その具体的な方法として、党中央は県連に対して、後援会との連携、保守系地方議員との連絡強化、地域支部の活用などを提示し、地域の状況に応じて柔軟に対応することを求めた。こうした党中央の、地方組織の自律性を尊重する方針は、地域の状況に適合的な組織を目指す県連の志向とも符合し、県連ごとに特色ある組織の運営や地域の要望吸収のシステムが構築される に至ったのである。 第6~8章では、そこで導き出された各類型の典型的な県連を取りあげ、その組織構造を解明していく。具体的には、第6章では県議ネットワーク型県連として熊本県連を、第7章では代議士系列型県連として群馬・高知両県連を、第8章では組織積み上げ型県連として静岡・愛媛両県連を対象とする。第9章では、各類型の組織構造の特徴をまとめたうえで、そうした組織構造の違いが、実際の政治過程にどのような影響を与えるのか、県知事選の候補者選考過程を通じて明らかにした。 カッツとメイヤーの言葉を借りれば、1970年代の自民党組織は、環境の変化に対して二重に「変容」・「適応」した。すなわち、1970年代初頭の社会・経済状況の変化に対して、党中央が理念化された大衆政党モデルから離れて、派閥や後援会を積極的に肯定し、多様化する民意の吸収に重点を置いた組織改革が進められたことで、第一の「変容」・「適応」が行われた。そして、県連などの地方組織が地域の状況に応じた組織運営の仕組みを確立させたことによって、第二の「変容」・「適応」がなされた。このように、自民党は、1970年代に見られた社会・地域の両面における多様性に対して、それを包摂する形で組織を拡大させることに成功したのである。こうした二重の「変容」・「適応」の結果、「公職としての政党」が、一方で他党と「カルテル」を組みながらも、他方で「地域における政党」の自律性を尊重しつつも、それとの密接な関係を形成しているという、他には類を見ない組織構造を形成するに至ったのである。 第2期に確立した自民党の特徴的な組織構造は現在、残存しつつも大きな「変容」を迫られている。第10章では、この点について展望を示した。グローバル化の進展や農村部の過疎化・高齢化によって、それまで自民党の組織が依拠してきた地域ネットワークは弛緩し始めた。また、財政リソースの減尐は、地域の要望に応えるための公共事業や補助金を通じた利益配分を困難にした。さらに、1994年の小選挙区比例代表制の導入は、選挙戦における無党派層の動向やマス・メディア・ソーシャル・メディアの影響力を大きくした。 こうした状況を受けて、第3期の自民党内では、徐々にではあるが、意思決定過程の集権化が進んでいった。また、イメージ戦略を重視する動きも見られた。その結果、例えば、2005年の衆院選での候補者選定過程で見られたように、党本部が県連の意向を尊重せず、両者の間で一時、「対立」とも呼ぶべき現象が生じた。しかし、2009年の政権交代以降、党中央では、第2期を通じて掘り起こされた支持基盤は縮小しつつも、依然として強固であることが再認識され、それを維持する方法として地域ネットワークとの密接な関係を見直されるようになってきている。現在でも、自民党では、党中央と地方組織との間には、依然として密接な関係が見られるのである。, application/pdf}, school = {学習院大学, Gakushuin University}, title = {「自民党型政治」の形成・確立・展開 : 分権的組織と県連の多様性}, year = {}, yomi = {ササベ, マリコ} }