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アイテム
西洋宮廷美術と日本輸出磁器 : 東西貿易の文化創造
http://hdl.handle.net/10959/3045
http://hdl.handle.net/10959/30453bc3c0b2-b659-4523-88e9-a4a82091aab8
名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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Item type | 学位論文 / Thesis or Dissertation(1) | |||||
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公開日 | 2013-10-08 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 西洋宮廷美術と日本輸出磁器 : 東西貿易の文化創造 | |||||
言語 | ja | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | セイヨウ キュウテイ ビジュツ ト ニホン ユシュツ ジキ トウザイ ボウエキ ノ ブンカ ソウゾウ | |||||
言語 | ja-Kana | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_db06 | |||||
資源タイプ | doctoral thesis | |||||
アクセス権 | ||||||
アクセス権 | open access | |||||
アクセス権URI | http://purl.org/coar/access_right/c_abf2 | |||||
著者 |
櫻庭, 美咲
× 櫻庭, 美咲 |
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抄録 | ||||||
内容記述タイプ | Abstract | |||||
内容記述 | 17世紀後半から18世紀半ばまでの時代、九州の肥前地方(現在の佐賀、長崎両県に相当)では膨大な数量の磁器(通称は伊万里磁器と呼ばれるが、学術名称で肥前磁器と称する)が生産され、世界の様々な地域へ輸出された。なかでも、西洋にもたらされた高品質の磁器は、磁器陳列という独創的な宮廷文化を形成しながら受容された。本研究は、大規模な肥前磁器の輸出がおこなわれるに至った要因を西洋宮廷文化に関連させて考察するという構想に基づき、東西陶磁貿易史研究に新たなヴィジョンを提示する。 論文は、序章、本論全3章11節、終章、さらに別冊資料篇を加えた構成をとる。以下、各章の内容を概述する。 第1章「江戸期の東西陶磁貿易」は、17世紀後半から18世紀半ばまでの時代に、オランダ・中国・イギリスの商人によって成された大規模な肥前磁器の輸出にかかわる新史料の検討と公開である。 第1章第1節では、オランダ東インド会社による公式貿易の取引について論じた。すなわち、1650年より1757年までの期間継続され、その輸出総数量は1,236,306個にも達した公式貿易(本方貿易とも呼ばれる)の商品取引の実態を、送り状および仕訳帳という会計資料から精査し、台湾、インドネシア、ベトナム、タイ、マレーシア、インド、スリランカ、イラン、イエメン、オランダという広範な輸出先への輸出の詳細を把握し、国別の輸出品の特色や貿易推移の相違を比較検討した。なかでもオランダ向けの輸出については、室内装飾用の壺や、茶器、皿類、酒器が大半を占めることが資料上確認できること、そして、その装飾や器種の特色が、西洋所在の伝世品の特徴と一致していることを論じた。なお、別冊資料篇に、これら全輸出先に関する肥前磁器全ての商品名、価格、個数等の詳細を記録した送り状および仕訳帳の原文の翻刻と邦訳を付した。 第1章第2節では、オランダ東インド会社の私貿易について論じた。私貿易とは、幕府側が「脇荷」と呼んだ、オランダ商館長以下の館員や船員の役得として一定額だけ許された私貿易品の取引である。1670年代の私貿易品の一覧から、東インド会社の全支社が私貿易に関わり、帰国する会社関係者の大半が肥前磁器を私貿易品として持ち込んだ状況が確認された。また、18世紀初頭に日本で作成された『唐蠻貨物帳』の私貿易品の一覧における肥前磁器の記載内容から、その私貿易品は西洋向け商品であることを特定した。 第1章第3節では唐船貿易について論じた。唐船貿易とは、長崎、台湾、福建、広東、厦門、バタヴィア等のアジアの地域に本拠地を置く中国系商人たちが所有する貿易船による商業活動である。唐船貿易により長崎からバタヴィアへ到着した肥前磁器の総数は、1664年より1682年の期間に1,048,807個・53,604束・30俵(推算3,744,007個)であり、公式貿易の輸出数をはるかに上回る。さらに筆者は、一次資料の検討により唐船貿易がもたらした肥前磁器は、碗を中心とするアジア向けの生活雑器が中心であるという新たな分析結果を提示した。 第1章第4節では、唐船が広東や厦門、寧波にも肥前磁器を運んでおり、その一部は同三港を通じてイギリス東インド会社によりイギリスへ供給されていた事実を、同社文書の分析を通して明らかにした。なお、記録からは、肥前磁器の取引が行われた期間は1699年より1721年迄であり、総数は107,415点であること、その器種の大半は茶器であることが確認できた。なお、唐船が運んだ肥前磁器は、バタヴィアを経由してオランダ東インド会社職員の私貿易でもオランダへも運ばれていたため、唐船を介するアジア貿易を経由してイギリスとオランダへ通じる貿易網が存在することになる。 第2章「西洋宮廷美術における受容」では、絶対王政下の17世紀後半から18世紀前半までの時代に、ドイツ、オランダ、オーストリア、イギリス、スウェーデン、ロシアといった国々において成立した、肥前磁器を含む磁器陳列の事例について論じた。筆者は、これらの磁器陳列の事例について、西洋の広い地域を対象とした大規模な現地調査を行い、その実態を把握した。また、磁器陳列に関連する一次資料を含む財産目録などの原文資料の調査も行い、現地における研究史も視野に入れた総合的な視点に立って、西洋で形成された磁器陳列の全体像を考察することを目指した。 第2章第1節では、肥前磁器の権威表象の問題を扱う。西洋の宮殿における室内装飾は、美術品を誇示することによって達成される権威表象装置としての役割を担い、磁器陳列にも、こうした権威を表象する機能がみとめられる。肥前磁器がドイツ、オーストリア、スウェーデン、イギリスといった大国の国王達の宮殿を飾り、肥前磁器を用いた陳列が大規模な地域的拡がりをもって展開したという事実は、当時の宮廷文化が肥前磁器に「宮廷の美術」としての価値を認めた証にほかならない。 第2章第2節では、ドイツでの磁器陳列室に施された意匠が、オランダ風のシノワズリ様式からフランス風のグロテスクを経てフランス風ロココへと変化する様式発展史を、具体的な作例を検討することにより考察した。なお、筆者が存在を確認することのできた全ての磁器陳列室は、バロック宮廷の内装において17世紀後半より顕著な流行をみせていた鏡の装飾を伴うものであった。本節では、注文主の男女差によりうかがえる特徴の相違について考察する。 注文者が男性の王侯の事例としては、磁器の城「日本宮」建設に取り組んだザクセン選帝侯でポーランド王を兼ねたアウグスト強王、シャルロッテンブルク城の「磁器の間」を設置したプロイセン選帝侯フリードリッヒ一世、ミュンヘンのレジデンツに「鏡の間」という磁器陳列室を設置したバイエルン選帝侯のマクシミリアン二世・エマニュエル、ヴァイセンシュタイン城に磁器陳列室を設置したバンベルクとマインツ教区の大司教兼選帝侯ローター・フランツ・フォン・シェーンボルン、ファルケンルスト城の「鏡の間」という磁器陳列室を設置したケルン大司教兼選帝侯クレメンス・アウグスト一世、ザルツダールム城に磁器陳列室を設置したブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルのアントン・ウルリッヒ侯といった諸侯の例があり、そのうち5名が選帝侯である。選帝侯は、ドイツ王(神聖ローマ皇帝)選挙に独占的な関与権を持つ有力諸侯であり、18世紀は9名がこの地位にあった。選帝侯達は、その身分に相応しい絶大な権威と財力を証明する必要に迫られており、そのために大規模で壮麗な宮殿を多数所有し、城内を満たす美術品の質と量においても、他の選帝侯との熾烈な競合を常に繰り返していた。そのため、彼らの収集は短期間かつ集中的に行われ、共通してほぼ一代で膨大な磁器コレクションを築きあげている。選帝侯達の間で大規模な磁器陳列室の設置が流行していた事実は、磁器陳列室が高度な権威表象の機能を担うと考えられた証左と見てよいであろう。 つぎに、磁器収集および磁器陳列室の創設と伝播に主要な役割を果たした女性の王侯である王妃達のケースは以下のようである。初期の発展段階においては、磁器陳列室の大半がネーデルラントのオラニエ家に関係する血筋の王妃達によって設置され、その後血筋と関係なく伝播している。そして総体的にみて、彼女等の磁器コレクションは、選帝侯のコレクションと比較して小型の器物が多く控えめなものであり、王妃等の磁器陳列室は小規模なものとして定着し、それらはアルテンブルク城やファザナリ城に設置された「鏡の間」という磁器陳列室のように、限られた人間しか立ち入ることのない私的な空間に設けられた。また、王妃達の磁器陳列室においては、異国からもたらされた特別な財産を生家から継承する自己の正当性の証、つまり家系の正統性を証明するという、男性の王侯とは異質の権威表象を読み取ることができる。 第2章第3・4節では、ウィーンのシェーンブルン城、スウェーデンのドロットニングホルム城等の磁器陳列の観察を通じ、中国磁器に対する肥前磁器の優位性を認めることができる事例を確認した。また、第2章第5節では、ミュンヘン・レジデンツ等の城の磁器陳列や、マイセンの柿右衛門様式の写し物の検討を通じ、日本の柿右衛門様式と蒔絵の意匠の評価が高まり、その写し物が宮廷で受容された状況を明らかにした。 以上、第二章では磁器陳列室の成立・発展史を捉えることにより、磁器陳列室を中心とする磁器陳列の文化が、王侯貴族達による磁器収集の軸となったことを明らかにした。権威表象という、宮廷において必要不可欠な機能を有する素材として宮廷文化に適合したからこそ、肥前磁器は中国磁器とともに室内装飾として受容されたのである。そして、この適応性がもたらした新たな宮廷文化の創出、ならびに大規模なコレクションの成立を前提とする磁器陳列の性格こそが、西洋における質の高い肥前磁器の流行と輸出隆盛の主要因となったと考えるのである。 第3章「近代における古美術としての流失」では、江戸時代に行われたような国際貿易としての積極的な意義を担うものではなく、美術商の個人的な商売として行われた肥前磁器の輸出の問題を扱う。同第1節では明治期、同第2節では大正から昭和戦前期までの時代に日本から欧米へ輸出された、日本人のために江戸期に製作された肥前磁器の特徴について、陶磁史研究では未紹介の史料である売立目録の掲載品の検討を通じて把握することを試みた。本研究では新史料の導入により様々な新説を提唱した。そこで特定した事柄として、近代以降に欧米へ輸出された国内向けの肥前磁器の器形は、鉢と皿が大半を占め、壺と茶器を中心とする江戸期の西洋向け輸出品と異なること、その絵付け意匠は侘びの美意識や鳳凰や龍という江戸期の日本で特に好まれた吉祥文が多用されている点から西洋向けの輸出品とは異質であるなどといった諸点がある。近代の文献史料による肥前磁器研究は、江戸期の西洋向け輸出品を明確に規定するための新しい有効な手段となるものである。 |
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フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
学位名 | ||||||
言語 | ja | |||||
学位名 | 博士(美術史学) | |||||
学位名(英) | ||||||
言語 | en | |||||
学位名 | Doctor of Philosophy in Art History | |||||
学位授与機関 | ||||||
学位授与機関識別子Scheme | kakenhi | |||||
学位授与機関識別子 | 32606 | |||||
言語 | ja | |||||
学位授与機関名 | 学習院大学 | |||||
学位授与機関(英) | ||||||
学位授与機関識別子Scheme | kakenhi | |||||
学位授与機関識別子 | 32606 | |||||
言語 | en | |||||
学位授与機関名 | Gakushuin University | |||||
学位授与年月日 | ||||||
学位授与年月日 | 2013-05-16 | |||||
学位授与番号 | ||||||
学位授与番号 | 32606乙第155号 |