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  1. 学習院大学
  2. 学位論文
  3. 博士(日本語日本文学)
  4. 2024年度

安部公房論・倉橋由美子論 : 監視とタブー

http://hdl.handle.net/10959/0002003000
http://hdl.handle.net/10959/0002003000
207a5c2f-8673-4039-aba2-f9630cdc200d
名前 / ファイル ライセンス アクション
abstract_K330.pdf abstract_K330.pdf (377.9 KB)
ref_abstract_K330.pdf ref_abstract_K330.pdf (406.2 KB)
summary_K330.pdf summary_K330.pdf (338 KB)
Item type 学位論文 / Thesis or Dissertation(1)
公開日 2024-12-04
タイトル
タイトル 安部公房論・倉橋由美子論 : 監視とタブー
言語 ja
タイトル
タイトル アベ コウボウ ロン クラハシ ユミコ ロン カンシ ト タブー
言語 ja-Kana
言語
言語 jpn
資源タイプ
資源タイプ識別子 http://purl.org/coar/resource_type/c_db06
資源タイプ doctoral thesis
アクセス権
アクセス権 open access
アクセス権URI http://purl.org/coar/access_right/c_abf2
著者 片野, 智子

× 片野, 智子

ja 片野, 智子

ja-Kana カタノ, トモコ

en Katano, Tomoko

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抄録
内容記述タイプ Abstract
内容記述 本論では、1960年代から1970年代にかけて書かれた安部公房と倉橋由美子の作品を、同時代の仕事や家族、はたまた性や身体といった様々な領域において顕われる、権力と主体の問題を中心に分析した。本論は二部構成、全十章から成る。
第一部では、安部公房の作品を主に論じた。安部の作品は『砂の女』以降、作者自身の名声の高まりとは裏腹に、その反リアリズム的手法の衰退と主題のマンネリズムが批判されるようになったが、本論ではそうした評価を乗り越えるべく、『砂の女』から『密会』に至るまでの作品を、主体と権力の問題を中心に考察することで、それらの作品が、高度経済成長期から1970年代以降のポストモダンにかけて起きた社会の変化を様々な角度から批判し、そこで生じた問題を乗り越えようとしたものであることを明らかにした。
第一章では、『燃えつきた地図』(新潮社、1967年9月)を同時代の社会・家族構造から考察した。作品が発表された高度経済成長期の状況と照らし合わせると、本作には「より豊かになる」という理想を家族一丸となって追求する内に、〈今の自己=追う自己〉と〈理想の自己=追いかける自己〉に自己が分裂し、無限の競争へと巻き込まれていく主体の問題が描かれていることが解った。更に、主人公の探偵の「ぼく」が、行方不明の「彼」を追いかけていく内に、自らも記憶を失い失踪者となってしまうという物語の展開が、理想の実現を先送りにするシステムの虚しさを暴き出し、そこから抜け出して新しい自己へと向かう可能性を指し示していることをも明らかにした。
第二章では、『他人の顔』(『群像』1964年1月、後に改稿され新潮社より1964年9月に刊行)に描かれている顔の特質を、自己疎外性・内面性・共同性という三つの観点から具体的に分析することで、主人公の「ぼく」が製作する、別人の顔の仮面が持つ効果について明らかにした。「ぼく」の仮面は〈素顔〉という観念に支えられた国家を解体する可能性さえ秘めたものだが、一方では仮面が剥き出しにしていく暴力性を批判的に描きつつも、他方では主人公の「ぼく」が迎える結末をわざと曖昧にすることで、『他人の顔』は仮面の効果を矮小化も誇張もしないまま、そのような仮面が果たして現実化した時にどうするかという問いを我々読者に突きつけているのである。
第三章では、『砂の女』(新潮社、1962年6月)の主要なテーマとして従来見なされてきた疎外と主体の問題を、監視と権力という視点から再考した。『砂の女』の主人公の男は同時代の規範的な〈男らしさ〉から疎外されていたが、砂の穴に閉じ込められ、「火の見櫓」から一方的に監視されることで、〈男らしさ〉の規範に適う性の主体となる。本論ではその「火の見櫓」からの監視を、フーコーが提唱した規律訓練型権力の範型であるパノプティコンと照らし合わせつつ、男の主体化が権力に対する従属化でもあることを明らかにした。更に、男は次第に監視される側から監視する側になりたいという欲望を膨らませていくが、結末部で性病を再発し、自らの身体の制御不能性と向かい合うことで、絶対的な権力になることの不可能性を自覚する。その上で、男が砂の穴に舞い戻っていくという結末が、監視するだけでも監視されるだけでもない、水平的な他者との関係性へと男が向かう可能性を示唆していることを提示した。
第四章では、安部公房の『箱男』(新潮社、1973年3月)に描かれている監視と権力の問題について、書くという行為と結びつけながら考察した。箱男である主人公の「ぼく」は、見られることなく他者を見る、つまり一方的に覗くことができる存在だが、「ぼく」の持つ覗く権力は、贋箱男(医者)の登場によって大きく揺るがされてしまう。そこで起きる、「ぼく」と贋箱男の間の覗くこと─書くことをめぐる権力争いは、サルトルが提唱した、見るか見られるかをめぐる闘争へと発展していく。更に、「ぼく」や贋箱男だけではない物語外の第三者が、別の「ノート」を書いている可能性が示唆されることで、「ノート」の〈真の書き手〉は不確定なものとなっていく。そこで生じた覗く視線の偏在性は、「ぼく」の告白を引き出し、自ら権力に服従する〈主体〉へと変えてしまう一方で、『箱男』では、「ぼく」の〈書く自己〉と〈書かれる自己〉の間にある時間的なズレを強調してみせることで、そうした告白による自己監視=自己省察が不可能なものであるということも浮き彫りにされている。更に、全体を一望して把握することが決してできない「迷路」のような看護師の存在は、自分で自分を監視することだけではなく、他者を一方的に監視することの不可能性までも描き出しているのである。そこでは、混迷する自己のありようと向かい合うことで、迷路の如き複雑な生身の他者と共に生きる覚悟こそが問われているのだと言えよう。
第五章では、『密会』(新潮社、1977年12月)に登場する盗聴システムを、近代からポストモダンに至る社会の変化を踏まえつつ、そこで生じた新たな監視や主体の問題と照らし合わせながら分析した。まず『密会』の前半では、物語の舞台となる病院全土に張り巡らされた盗聴システムは、全体国家の盗聴を利用した支配や、規律訓練型権力の象徴であるパノプティコンと対応するものとして描かれていた。そしてそこでは、見られている不安から自己監視を行う「ぼく」や患者たちの姿が描かれていたが、『密会』の後半になると、彼らは見られる不安より見られたい欲望を顕わにしていく。そしてその変化は、一九七〇年代以降の社会で台頭してきた、断片化=流動化する自己を絶え間なくチェックし、承認を与えてくれる新しいタイプの監視のもとで起きた、主体の変容とも合致するものであった。その上で、結末部の付記では、見せたい/見せたくないという欲望の激しい鬩ぎ合いの中で書き続けることで、一貫した主体とも、断片化=流動化した自己とも異なる、その間を絶え間なく動き続けることでどちらからも逸れていく、新しいタイプの自己の形が描かれていることを明らかにした。
第二部では、倉橋由美子の作品を主に論じた。倉橋の作品は、現実の世界を変革するために《反世界》を構築するという作者・倉橋の意識的な試みを取り入れつつ、既成の文学作品の引用やパロディーによって作品の内部と外部の境界を攪乱しようとする、当時としては極めて先駆的なものであったが、その効果や意義はこれまで十分に論じられてこなかった。そこで本論では、今まで等閑視されてきた倉橋の作品の持つ可能性に光を与えるべく、そこに描かれたグロテスクな身体性やインセスト・タブーを犯す性的放縦さといった、一見すると現実から遊離した描写が、実のところ高度経済成長期の性や身体、あるいは家族をめぐって形成される主体や権力のありようを映しだし、更にはそれを攪乱する方法をも示していることを明らかにした。
 第一章では、倉橋由美子の『暗い旅』(東都書房、1961年10月)と初期短編に描かれた、妊娠・出産する女性の〈妊む身体〉という、自分では制御不能な身体性に着目し、それに依拠することで権力に抵抗する方法を提示した。文壇デビュー作「パルタイ」(『明治大学新聞』1960年1月14日、後に新潮社より1960年8月に刊行された短編集『パルタイ』に収録)をはじめとする倉橋の初期作品に一貫して描かれているのは、自律的主体を撹乱してしまう〈妊む身体〉に対する恐れや嫌悪だが、一方で「蛇」(『文學界』1960年6月、後に新潮社より1960年8月に刊行された短編集『パルタイ』に収録)では、偶然にも蛇を飲み込んでしまったKという男性の姿を通して、〈妊む身体〉を通して表出する身体の制御不能性をめぐって構築される、不平等な男女の主客関係をあぶり出そうとする試みが見られる。更に『暗い旅』になると、物語外の語り手によって一方的に呼びかけられることで、受動的な女として客体化される「あなた」の姿が二人称で描かれるが、「あなた」はその呼びかけを積極的に引き受けるふりをしつつ、その陰では〈妊む身体〉の制御不能性を絶えず自覚することで、演じる女の仮面と自己との間に隙間を作り出す。そこから立ち現れるのは、呼びかけによって生じながらも、その呼びかけに決して一元化されることのない「あなた」の姿である。また、「あなた」は演じている女の仮面の陰に隠れて、男の身体の制御不能性や脆弱性を暴き立てていく。そうした「あなた」の姿が、性の規範や主体化=従属化を促す権力への抵抗となりえるものであることを提示した。
 第二章では、「ヴァージニア」(『群像』1968年12月、後に新潮社より1970年3月に刊行された短編集『ヴァージニア』に収録)があたかも私小説として読めるような仕掛けを施す一方で、様々な小説やエッセイ、あるいは映画の引用から成る「モザイク」小説であることを指摘した上で、それがどのような効果をもたらすのか、作中に登場する二人の女性の関係性に着目することで読み解いていった。まず、フロイトの精神分析を援用しつつ、倉橋の他の作品の描写も参照することで、主人公の「わたし」とヴァージニアの関係性が、自他の境界の不安定さを顕わにするものであることを明らかにした。一方で、「わたし」の語りはヴァージニアと完全に一体化する方向へ進むことなく、絶えず変容するヴァージニアの姿を浮き彫りにし、その「断片」のみを読者に提示するというものである。そのような「わたし」の語りは、「わたし」自身をも含めた読者が、与えられたヴァージニアの「断片」をつなぎ合わせていくことで、またヴァージニアに変容をもたらす、という仕掛けになっていた。しかも「ヴァーニア」という作品自体が、既存の作品の様々な引用から成るものであり、ヴァージニアを構成する「断片」としてそれらが組み合わされていくことで、ヴァージニアは無限に近い変化を遂げていくことになるのだ。また、作者であり読者でもある「わたし」自身も、ヴァージニアの変化をその都度取り込むことで変化し続けていく。こうして、相互に変容し続ける「わたし」とヴァージニアの関係性が、主体/客体という関係に拠らずに、新たな形で自他が繋がっていく道筋を指し示したものであることを明らかにした。
第三章では、『聖少女』(新潮社、1965年9月)における、主人公の「ぼく」とその姉、さらには未紀という少女とその父が織りなす、二つの近親相姦を比較分析することで、「ぼく」の姉への近親愛がナルシシズムに根ざすのに対して、未紀の父への近親愛はマゾヒズムに基づいていることを明らかにしたうえで、未紀のマゾヒズムがインセスト・タブーという〈法〉を攪乱していく様相を考察した。未紀の近親姦を辿っていくと、ペニスを持たない欠けた存在として規定された娘が、実の父と近親姦の罪を犯すことで、〈法〉を一度は侵犯するものの、〈法〉の象徴たる当の父によってそれを罰されることで、父から父に似た存在へと欲望の対象を移し、次代の家族の再生産へと向かっていくという、女性版エディプス・コンプレックスの克服の物語が一見すると浮かび上がってくる。しかし実際は、マゾヒストたる未紀は現実と妄想の境目をわざと曖昧にしていくことで、インセスト・タブーという〈法〉さえも利用して、自らの求める苦痛=快楽を得ようとする。しかも、「ぼく」と未紀の関係に注目すると、未紀が苦痛=快楽を得るために、父のみならず「ぼく」さえも利用して、「ぼく」との結婚をマゾヒズム的な契約関係へすり替えていこうとしていることさえもが明らかになる。そうした未紀のマゾヒズムは、違反した者に厳しい処罰を与えることで抑止力となる、インセスト・タブーという〈法〉を内側から骨抜きにしてしまうばかりか、男性中心的な快楽のありようや結婚という制度を内側から解体していく契機ともなりえるものだということを提示した。
第四章では、「河口に死す」(『文芸』1970年5月、後に河出書房新社より1971年6月に刊行された『反悲劇』に収録)の近親姦を、〈法〉の事後性=暴力性と、それを隠蔽してしまう主体化=従属化の問題から考察した。まず、主人公の高柳老人にかつて預言を授けた乞食の語りを通して浮かび上がってきたのは、自分では意味も理由も判らぬままにやってしまった行いに対して後から罪を背負わせるという〈法〉の事後性=暴力性であると同時に、その意味も理由も判らぬまま行動してしまう自己の制御不能性を隠蔽するために、人は自ら〈法〉を受け入れてしまうという、主体化=従属化の機制であった。一方で、主人公の高柳老人は乞食の預言通りに近親姦を行おうとするが、それは義母との擬似的な近親姦という、差異を生み出す模倣にしかならない。高柳はその模倣を自分の意思でやったものと信じていたが、ノートを書くことを通して、乞食から与えられた預言の二重性に気づき、結局は乞食の預言に従ったにすぎないことを自覚する。その過程は、フーコーの告白の機制と照らし合わせた時、主体化とはすなわち従属化であるということを暴くものとなる。高柳はそうした主体化=従属化の機制に気づくことで、主体で在り続けることをやめてしまうが、一方で「河口に死す」では、乞食─高柳─修二─麻子と一族の中で受け継がれていく近親姦が、実母との近親姦から義母との擬似的近親姦へズレていき、最後には高柳と麻子の間の言語的なゲームにまで逸脱してしまう姿が描かれている。そのような自己の制御不能性から生じる欲望の不定性がもたらす、近親姦の希薄化=拡散が、〈法〉を攪乱していく可能性について論じた。
第五章では、『夢の浮橋』(『海』1970年7~10月、後に中央公論社より1971年5月に刊行された『夢の浮橋』に収録)の主人公である桂子の持つ、実兄(?)である耕一に向ける欲望の様相に注目することで、〈法〉を攪乱する自己の制御不能性について、より突き詰めて考察した。インセスト・タブーという〈法〉の狡猾さとは、実際に近親姦を行おうと行うまいと、欲望を持っていたということだけで、事後的に罪と見なされてしまうということにある。それに対して『夢の浮橋』では、罪だと知りつつも思わず近親姦を行ってしまう桂子の姿を描くことを通して、欲望する自己の制御不能性や、それを制御しようとする自己との間にあるズレや遅延を顕わにしていく。それは、欲望を後からしか裁くことのできない〈法〉の事後性を露呈するものでもある。その一方で、桂子は意図的に耕一との間にある血縁関係の真偽を宙づりにすることで、欲望そのものの善悪の決定を不可能にさえしてしまう。このように、『夢の浮橋』では桂子の意図的な真偽の宙づりという戦略と、それを越えたところにある自己の制御不能性という二つの側面から、〈法〉の攪乱が描かれているのだ。しかも桂子は、擬似的な父親である堀田や、本当の父かもしれない圭介といった、周囲の男たちにも次々と欲望を向けていくことで、真性/疑似の近親愛という境界線までも揺るがしていく。そのような桂子の姿を追うことで、インセスト・タブーという〈法〉を内側から攪乱していく方法を提示した。
フォーマット
内容記述タイプ Other
内容記述 application/pdf
出版タイプ
出版タイプ VoR
出版タイプResource http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85
学位名
言語 ja
学位名 博士(日本語日本文学)
学位名
言語 en
学位名 Doctor of Philosophy in Japanese Language and Literature
item_10006_degree_grantor_42
学位授与機関識別子Scheme kakenhi
学位授与機関識別子 32606
言語 ja
学位授与機関名 学習院大学
item_10006_degree_grantor_49
学位授与機関識別子Scheme kakenhi
学位授与機関識別子 32606
言語 en
学位授与機関名 Gakushuin University
学位授与年月日
学位授与年月日 2024-10-01
dissertation_number
学位授与番号 32606甲第330号
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Ver.1 2024-12-04 05:56:49.138549
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