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アイテム
浦辺史の「三位一体の保育運動」 : 「保育研究・保育所づくり・労働運動」
http://hdl.handle.net/10959/0002002924
http://hdl.handle.net/10959/000200292402026e04-1d60-481e-810d-679c69242da9
名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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Item type | 学位論文 / Thesis or Dissertation(1) | |||||||||||
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公開日 | 2024-06-04 | |||||||||||
タイトル | ||||||||||||
タイトル | 浦辺史の「三位一体の保育運動」 : 「保育研究・保育所づくり・労働運動」 | |||||||||||
言語 | ja | |||||||||||
タイトル | ||||||||||||
タイトル | ウラベ ヒロシ ノ サンミイッタイ ノ ホイク ウンドウ ホイク ケンキュウ ホイクジョ ヅクリ ロウドウ ウンドウ | |||||||||||
言語 | ja-Kana | |||||||||||
言語 | ||||||||||||
言語 | jpn | |||||||||||
資源タイプ | ||||||||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_db06 | |||||||||||
資源タイプ | doctoral thesis | |||||||||||
アクセス権 | ||||||||||||
アクセス権 | open access | |||||||||||
アクセス権URI | http://purl.org/coar/access_right/c_abf2 | |||||||||||
著者 |
中山, 佳寿子
× 中山, 佳寿子
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抄録 | ||||||||||||
内容記述タイプ | Abstract | |||||||||||
内容記述 | 浦辺史は、保育運動を、戦前と戦後を通し長期にわたり牽引した保育研究者である。本研究の主題は、浦辺の「新しい保育」の源流と展開を、戦前から戦後にわたる教育実践、保育実践、調査・研究の経験のうちに探り出すとともに、「新しい保育」の探究過程で形成された「三位一体の保育運動」論が、保育史上にもたらした創造的価値を浮彫りにすることにある。 浦辺史の実践の出発点は、小学校教師時代の「悪い社会」を教育によって変えるという志にあり、その後教育から保育へと実践の場を移してからも、社会変革への志向は1980年代まで変わらなかった。浦辺史にとって保育運動は、民主社会を実現する「新しい保育」への具体的過程であった。戦前、城戸幡太郎が教育のために家庭や社会を再構成しようとした、つまり社会・文化の自己革新運動を保育研究の基盤としたのに対して、浦辺は反対に「新しい保育」を探究する営みそのものが社会変革を起こし民主社会を実現する道程であると考えていた。 これまでの浦辺史に関する研究はいくつか存在するが、小学校教師、東京帝国大学セツルメント託児部の活動など、比較的短い時期を対象として、個別に浦辺の実践、研究、思想の検討が行われてきた。しかし、浦辺の思想の核となるのは、実践と研究に基礎づけられた「新しい保育」と「新しい保育所」である。「新しい保育」の本質を捉えるには、浦辺の生涯にわたる実践、研究の経験の検討を通して、思想の変遷を解明する必要がある。また、先行する保育史研究、保育運動史研究においては、保育研究と労働運動の相互関係が保育運動全体に及ぼすダイナミクスについて論じられていない。取り上げられてこなかった理由として、浦辺史の「三位一体の保育運動」が検討されてこなかったことが考えられる。 浦辺史の「三位一体の保育運動」(1962年)は、保育所の不足や保育内容の向上、保育者の劣悪な労働環境の改善を求めて提唱された、保育研究運動、保育所づくり運動、保育者の労働運動が連動しながら一つの大きな潮流の形成を目指す、という運動の手法かつ理念である。浦辺史の「三位一体の保育運動」を主題とする本研究は、保育運動が政策決定や制度改善に影響を持ちうる勢力を持つための条件という保育運動の核心を明らかにする一助となる。 本研究の特徴は、二つある。一つは浦辺を特定の時期において捉えるのではなく、1920年代半ばから1970年代という長期にわたる実践、研究、保育運動への取り組みを、「新しい保育」による社会変革の道程として捉え、検討する点にある。もう一つは、これまで保育史研究、保育運動史研究で言及されてこなかった、戦後の保育運動における、保育研究運動と保育者の労働運動の相互関係の解明と意義を提示する点にある。 浦辺史の戦後の保育への貢献を特色づけるものは三つある。一つめは、保育研究運動、保育所づくり運動、保育者の労働運動という三つの運動を関連させより大きな運動へと導くという「三位一体の保育運動」の推進である。二つめは保育者と保護者の学習と共同が民主主義を醸成するという思想である。三つめは「新しい保育」の希求である。「新しい保育」は他の二つの目的である。このうち一つめに含まれる保育者の労働運動は戦後に加味された要素であるが、それをのぞいて、すべて戦前に源流を持つ。特に一つめに含まれる保育研究運動と二つめの共同に関する思想、三つめの「新しい保育」は、戦前の無産者託児所及び東京帝国大学セツルメント託児部に代表される「新しい民主的保育所」の経験から生まれた。 本研究では、「新しい保育」が発想された時期の描出と戦後への影響、戦後の浦辺の「三位一体の保育運動」論の意義という主題を、1920年代半ばから1970年後半にいたるまでの浦辺史を、従事した職ごとに時期区分し、それぞれの実践や行動、執筆記事や論文にあらわれた考えを形成的に捉える。ただし、「三位一体の保育運動」を提唱した1962年の前後の時期については、浦辺の仕事が多岐に渡るため、日本福祉大学における研究と保育者養成教育を中心とした第7章と、保育運動へ取り組みを中心とした第8章と二つの視座から捉えることとした。 9つの章で主題に対する考察を行う軸として、課題を三つ設定した。一つめは、小学校教師時代に灯され生涯消えることのなかった社会変革への意識の変遷を、戦前、戦後の保育研究・保育者養成・保育運動の仕事のなかに探り出すことである。二つめは、浦辺が公私双方で目指した、生活の共有と学び合いによる民主的な人間関係の生成を、具体的な出来事から叙述することである。三つめは、昭和初期から1970年代までの道程において、それぞれの時代に浦辺が抱いた「新しい」保育者像の変容を叙述することである。 第Ⅰ部では、1925年から1943年までを第1章から第4章において検討した。 第1章では、浦辺の小学校教師時代の教育実践と同僚との共同生活の詳細を考察した。最初の赴任地である多摩郡の浅川小学校で、浦辺は農村の子どもたちの貧困に胸を痛めペスタロッチの「悪い社会」を変えるという思想に心酔した。同僚との共同生活のなかで、浦辺は『教育問題研究』に影響された新教育の教育実践と研究、地域の人々との交流を深めていった。浦辺は小学校教師時代の教育実践と同僚との共同生活の経験によって、個性と自主性を育む場としての集団、生活の共同による対等で民主的な関係の生成、という生涯の実践と研究のテーマを得た。特に前者は、集団のなかで育つ子どもという、浦辺の「集団保育」モデルの根拠となった。 第2章では、新興教育研究所の所員として新興教育運動に身を投じた1931年7月から1932年10月の時期を中心に取り扱う。不当馘首によって教師の道を断たれた浦辺は、特別高等警察を警戒し住居を転々とする暮らしを送りながら機関誌『新興教育』の編集や執筆に携わる一方、同研究所の組織内部の矛盾と、知識層が大衆の階級意識を扇動するという、上からの啓蒙の限界に悩む。特別高等警察に捕らえられた後、浦辺が手記に描いた啓蒙の手法は、農民が自らの手で教育を行うという方法であった。この時期、マルクス主義への期待感は、教育運動と大衆の乖離によって失望へと変わる。第2章では、浦辺の教育運動の試みと挫折が、浦辺が東京帝国大学セツルメントで構想した啓蒙と地域の変革の礎石となったことを示した。 第3章では、浦辺が保育に「開眼」した東京帝国大学セツルメントの日々を、保育実践の内容と機関誌『児童問題研究』の執筆記事の検討によって浮彫りにする。浦辺は東京帝国大学セツルメント託児所の保育実践と研究によって五つの概念モデルを形成した。すなわち、地域の共同と自律した保母によって運営される「新しい保育所」、教育的視点と実践研究で更新される「新しい保育」、母親及び同僚と対等に結び合う自律した保育者、「自己教育」と共同による啓蒙の装置としての「母の会」、育ち合いを主眼とする「集団保育」である。これら五つのモデルの構想を促したのは、抑圧者のいない自由な環境のもとで育まれた、保母との対等で民主的な人間関係であった。 第4章では、浦辺が天照園子供の家の「男保母」、東京市社会局の寺島方面館方面係、社会事業研究所所員という三つの職を経験し1943年5月に逮捕されるまでの、保育に対してより俯瞰的な視点を獲得した時期を取り扱う。天照園子供の家の保育実践において、浦辺は「集団保育」の有効性に確信を得たが、一方で、政府の政策の不十分さと民間慈善事業の欺瞞の問題と、スラムでの地域共同は実現不可能であるという「新しい保育所」の限界性をもつきつけられた。社会事業が孕む構造的問題を直感した浦辺は、保育問題研究会で中心的役割を果たす一方、社会事業研究所で全国規模の保育施設の調査『本邦保育施設に関する調査』(1943年)に取り組んだ。浦辺は調査によって、幼稚園と託児所の一元化の必要性、保育設備と保育内容の格差、保育施設の地域偏在の問題、保母の専門知識、教養の貧困など、戦後につながる保育の課題を発見し、「戦時保育施設標準設定のために」(1942年)で保育の規格化を提案した。戦前の主著『学齢前児童の諸問題』(1936年)に見られるオーエンの思想への傾倒と勤労女性の解放の主張、『本邦保育施設に関する調査』に提示される「新しい保育所」はすなわち「地域の生活文化の拠点」であるというアイディアは、戦後につながる保育への課題意識の起点となった。 第Ⅱ部は、終戦直後から浦辺が日本福祉大学を退職するまでの時期を対象とした。 第5章では終戦直後からの5年間の、民主保育連盟結成や総合生活研究所での調査、新しい家庭科教科書作りを検討し、この時期が戦後の浦辺の思想と行動の起点であることを示した。 浦辺が結成に携わった「民主保育連盟」は、保母を労働者として捉える視点、研究による自己教育、保育所づくりを理念に含んでいる点で、1962年の「三位一体の保育運動」の構想の萌芽であった。羽仁説子とともに取り組んだ家庭科教科書では、生活への科学的視点の導入による家父長制からの脱却、女性の権利の保障の意識が明確に表れている。浦辺の女性の権利保障への捉え方は、戦前の女性の自覚と行動を前提としたものから、男性の意識変革による家族制度の民主化を基盤とするものへと深化した。 第6章で扱った国立身体障害者更生指導所の舎監としての実践は、戦前の二つの経験の応用と発展に特徴づけられている。身体障害によって心に傷を負った人々同士、彼らと社会福祉の実践者、社会福祉の実践者同士という三つの民主的な関係は、東京帝国大学セツルメント託児所で探究された「新しい託児所」の三相の関係の応用であり、困難を抱えた当事者が生活の協力と学び合いによって自己の尊厳を回復し、自治と共同を叶える方法は、小学校教師以来の浦辺の共同のスタイルを発展させたものである。 第7章では浦辺の「三位一体の保育運動」(1962年)の構想の基礎が、中部社会事業短大(後の日本福祉大学)赴任後の大学教育及び史的観点からの社会事業研究にあることを示した。福祉事業従事者は実践で把握した課題の改善のため、行政や政治に働きかけるとともに、国民全般に情報公開することによって社会的な認知を広めていく「ソーシャルリフォーマー」の役割を持つ、とする見地は、浦辺に新たなビジョンを与え、1960年代前半の保育運動の理論的支柱の一つとなった。さらに、保育者養成課程の実習を通した地域の農繁期保育所づくりの試みや、1959年の伊勢湾台風被災における全学あげての救援活動の先導など、大学教育の中で生まれた実践も、浦辺の「三位一体の保育運動」構想の理論的基盤となった。 第8章では、「三位一体の保育運動」を構成する三つの運動、即ち保育研究運動、保母の労働運動、保育所づくり運動のうち、特に大きな要素である前者二つの詳細を、民主保育連盟(1946年~1952年)と東京、福島など各地で起こった1950年代の保母の労働運動との関連とともに明らかにした。浦辺の「三位一体の保育運動」における保育研究運動とは、城戸幡太郎が「これからの保育研究運動の目標」(1962年)で提唱した「実践家と理論家との協力による実践行動」によって「現実の保育問題にたいするリアルな認識」を研ぎ澄ましていく営みを基礎としていた。「三位一体」のうち、浦辺の主張する保育研究運動で重視されたのは、保育の歴史的・政治的な意味、経験主義の克服と創造性重視の幼児教育、制度と政策の研究及び保育者の労働条件、幼保一元化の遅滞による弊害、の四点である。三点めの示す通り、浦辺のいう保育研究運動は、保母の労働運動という要素を包含しており、民主保育連盟や東京保母の会など、保母による保育研究と労働運動が同一の場所で行われてきた、という歴史的経緯を踏まえたものであった。 1960年代に入ると、浦辺が支援する二つの集団で保育運動の光と影を象徴する出来事が起こった。光の側面は、私立園に勤務する若い保母たちを中心とした京都私立保育園保母労働組合の結成(1961年11月)であり、影の側面は、ヤジエ・セツルメントの廃園(1962年8月)と保母の解雇である。ヤジエ・セツルメントをめぐる出来事が地域の保育運動の限界を示す一方で、京都私立保育園保母労働組合の設立への動きは、労働運動の持つ可能性を示す出来事であった。同時期に起こった二つの出来事は、地域の保育運動の限界を、地域を超えて結び合う労働運動の力によって補完し乗り越えるという発想を生んだ。くわえて浦辺は各地の保育グループを保育研究のネットワークとして編成を目指した。保母の労働運動と保育グループのネットワーク化という二つのアイディアから、「三位一体の保育運動」の構想が生まれた。 第Ⅲ部、第9章では、全国民間保育団体合同研究集会(「保育合研」)の第一回(1969年)から1980年代前半までを検討した。「三位一体の保育運動」は1970年代半ばまでは保持されたが1970年代後半から労働問題の分会の参加者数は減衰したばかりでなく、問題の取り扱いの難しさから分会は縮小し、1980年代半ばには「三位一体の保育運動」の影響は消失した。以降、「保育合研」を含めた保育運動は、研究運動を主としたものへと変容し、保育研究と保育者の労働運動は分断された。1970年代半ば、全国レベルでの保育運動では労働運動の影が薄れた一方、浦辺が保育所づくり運動の実践として創設したこぐま保育園とその周辺の永山地区では、保育研究運動、保育所の改善を目指す地域の運動、労働組合の運動が互いにエネルギーを補完しながら、創造的な保育と地域の共同の生成が行われた。こぐま保育園の事例は、地域と保育の接続に携わる人々が直接的に感じ取れる規模においては「三位一体の保育運動」が有効であることを示唆している。 浦辺の示した「三位一体の保育運動」の保育史上の意義は、「小異を超えて」結び合い運動を政策決定に影響を持ち得る勢力へと導く手法が具体的に提示されたこと、1960年代前半から1970年代半ばまでの保育運動の全国への波及に貢献したこと、労働運動が保育者の当事者意識を高めるだけでなく、実践や研究と分離できないものであることを示したことである。「新しい保育」を求める浦辺の道程は、保育者と保護者、地域の人々が共同し学び合う過程で実現する「新しい保育所」と、自律的な市民としての保育者と保護者による保育運動によって民主社会の実現を企図した、社会変革者としての歩みであった。浦辺の「保育所は民主主義の学校」という言葉は浦辺の求めた「新しい保育」を象徴している。社会変革の過程としての保育運動を永続させるため、構想されたのが「保育研究運動」、「保育所づくり運動」、保育者の労働運動、という三つの運動が「三位一体」となって互いにエネルギーを補完し大きな勢力を維持する「三位一体の保育運動」であった。 浦辺は実践および研究を通して、「新しい保育所」を運営する「新しい」保母、「新しい」保育者モデルを五つ得ている。一つめは東京帝国大学セツルメントなどの無産者託児所の「未来の社会」を求める自律した保母、二つめは保育問題研究会や社会事業研究所時代に出会った実践と研究の往還のなかで幼児教育を究める保母、三つめは焼け野原のなかで子どもを守るため連帯する民主保育連盟の保母、四つめは名前と顔を持ち地域の人々と共同するヤジエ・セツルメントの保母、五つめは劣悪な労働環境からの脱却を求めて運動する保母、である。 本研究の現代的意義は次の三点である。一点目は浦辺史の生涯にわたる保育運動への取り組みの検討を通して、厳しい労働環境の続く現代の保育状況の解決への糸口は保育者の労働運動にあると示したことである。二点目は、戦後の保育運動がたどった経緯の検討によって、保育研究における労働環境の研究、保育政策研究の重要性を明らかにしたことである。三点目は浦辺の「新しい保育」の探求の道筋を描出することによって、民主主義や共同体を生成するという保育及び保育所の特質を再発見したことである。 残された課題は三点ある。一つめは、浦辺の「三位一体の保育運動」の消失を招いた保育者の労働運動の停滞と減衰の直接的な理由を明らかには出来なかったことである。その探究には、戦後の公務員保育士の労働運動、多職種の労働組合の動向の詳細な把握を必要とする。二つめは、浦辺が生涯を通じて社会変革を志向していた以上、政治的意見や行動の検討が必要であるが、本研究では、保育と保育運動に関連する論文、行動のみを研究の対象としたために、政治に対する考えについて未検討である。三つめは、浦辺の社会福祉研究の包括的な検討である。本研究では、浦辺の保育研究や保育運動への考えに影響を及ぼした日本福祉大学時代における社会福祉論文のみ取り扱ったが、社会福祉学の視点から浦辺の保育思想の形成を捉えることは、今後の課題として残されている。 |
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フォーマット | ||||||||||||
内容記述タイプ | Other | |||||||||||
内容記述 | application/pdf | |||||||||||
出版タイプ | ||||||||||||
出版タイプ | VoR | |||||||||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||||||||
学位名 | ||||||||||||
言語 | ja | |||||||||||
学位名 | 博士(教育学) | |||||||||||
学位名 | ||||||||||||
言語 | en | |||||||||||
学位名 | Doctor of Education | |||||||||||
item_10006_degree_grantor_42 | ||||||||||||
学位授与機関識別子Scheme | kakenhi | |||||||||||
学位授与機関識別子 | 32606 | |||||||||||
言語 | ja | |||||||||||
学位授与機関名 | 学習院大学 | |||||||||||
item_10006_degree_grantor_49 | ||||||||||||
学位授与機関識別子Scheme | kakenhi | |||||||||||
学位授与機関識別子 | 32606 | |||||||||||
言語 | en | |||||||||||
学位授与機関名 | Gakushuin University | |||||||||||
学位授与年月日 | ||||||||||||
学位授与年月日 | 2024-03-31 | |||||||||||
dissertation_number | ||||||||||||
学位授与番号 | 32606甲第326号 |