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          <dc:title>La postérité critique d'Anatole France</dc:title>
          <dc:title>アナトール フランス エノ ヒヒョウ</dc:title>
          <dc:title>アナトール・フランスへの批評</dc:title>
          <dc:creator>澁谷, 与文</dc:creator>
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          <dc:description>アナトール・フランス（以下、フランスと略す）に対する賛否両論が鳴りやまぬままに百年が過ぎた。世界を代表する知性であった作家の生前の影響力は翳ったが、それでも著書は仏・英・米・独・日・中・ハンガリーなどで常に刷られ、時には新訳やモノグラフィーも出版される。しかし、文学研究はかつてより少なく、その量は『現代史』や『神々は渇く』を重要視する歴史学と良い勝負である。作品・思想に関して生前から続く賛否は、死後のシュールレアリストのパンフレットとポール・ヴァレリーのアカデミー会員就任演説という印象的な批判を経て現在に至る。そこで本論文では、ミラン・クンデラが近著で指摘したそうした現状と、作品の再評価を頼りに、幾つかのフランスに対する批評を読み解いて行く。フランスに対する批評には二重性が付きまとっている。つまり、賛否両論とは作家本人の思想や一つの小説に対する多方面からの意見の違いだけではなく、ある批評（家）の内部の賛否両論でもある。アンドレ・ジッド、ジュール・ルナール、モーリス・バレスといった1860年代生まれの作家達によるフランスに対する態度は一様に賛否と注視といったものである。しかし、それに対して1870年代生まれの作家達の態度は多様である。その一人であるヴァレリーのアカデミー演説は、その前半の礼賛と後半の侮蔑が対称的に分離した零度の批評である。ここでは、賛同と批判が同じことを示しうることが証明されていて、フランスに対する批評であると同時にアカデミー演説という儀礼への批評を成している。また、この批評は死者への餞としての弔鐘でありながら、フランスに対する政治性を帯びた批評の始まりを告げているのである。ヴァレリーがアカデミー演説で示した現代の文学の危機に傾聴したアルベール・チボーデは、フランスをその危機の象徴にまで高めた。また、文学史家としての使命から、晩年までフランスの批評を書き続けた。しかし、チボーデはフランスを、ホメロス、プラトン、ファブリオー、ラブレー、ボワローなどに続く「接木文学」の中に位置づけながら、最も「接木」性の高いフランスの作品、『ペンギンの島』に対する批評を尽くしているようには見えない。『ペンギンの島』は矢作俊彦の『あ・じゃ・ぱん！』と同じ歴史改変小説である。面々と続く接木文学とも言えるこの二つの小説は、両者とも文明に対する危機意識を文明の基点に求めている。矢作が文明の終焉を明治維新に求めたのと同じく、フランスはそれをトゥール・ポワティエの戦いに求める。この時、フランスとチボーデは同じ文明の中で正反対の時期に危機を見出している。チボーデの危機意識は現在のコンピューター社会ではありふれた文学の現状として受け入れられている。それゆえ、チボーデの衣鉢をつぎつつ、接木文学としてのフランスの作品を文学史の中で問い直す必要があるのではないか。</dc:description>
          <dc:description>departmental bulletin paper</dc:description>
          <dc:publisher>学習院大学大学院人文科学研究科</dc:publisher>
          <dc:date>2011-10-31</dc:date>
          <dc:type>VoR</dc:type>
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          <dc:identifier>学習院大学人文科学論集</dc:identifier>
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          <dc:identifier>Gakushuin University studies in humanities</dc:identifier>
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